2009年03月22日

「現世利益」と「法罰論」

創価学会の「ご利益」と「罰」について考えてみた。

「現世利益」とは、
  神仏の恩恵や信仰の功徳が現世における願望の実現として
  達成されること

この世で願いを叶えてくれるのは、神様でも仏様でもお題目でもなく、
自分自身だ。
座してただひたすらに祈っていたところで、願いは叶わない。
池田サンも「怠けてはいけない」と言っているし、学会員も「努力なくして勝利なし」ということは理解しているはずだ。

では、努力を重ね、真面目に勤行した人の願いが叶わなかった場合、
「約束された勝利」はどこへ消えたことになるのだろうか。
これは、「努力が足りない」もしくは、「信心が足りない」という事に
なるらしい。
単純明快な回答だ。言い換えれば、ミもフタもない。
そして、「その時は思うような結果にならない場合があったとしても、
後になってみると、一番良かったという方向になっていく」のだそうな。
こちらは、何とも曖昧な、お茶を濁した様な回答。
(創価学会HP「新会員のために」より)

所詮、「約束された勝利」「約束された幸せ」など、どこにもありはしない。
どんなに努力しても勝利を掴み損ねることもある。
健康な人が、事故や怪我、病に倒れることもある。

そういう時に手を差し伸べる事こそ、傷ついた心を救う事にこそ、宗教の存在意義があると思う。

お題目の力の及ばない事に、「信心が足りない」の一言で切り捨てられてきた学会員は多いのではないだろうか。
学会は、都合の悪いことに目を瞑り、教義の矛盾を、信者に責任転嫁
してきたのではないか?
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「法罰論」はどうだろう。
罪には罰が下ることがある。因果応報という言葉もある。

では、罪とは、日蓮や、唱題や、学会を否定するということなのか。
それが「仏罰」につながる仏教の真理だと言うなら、疑問は大きい。
罪とは、道徳・正義に反することだ。
人を傷つけたり、自分を裏切ったりする事だ。

そもそも、人の幸・不幸を第3者が判断するなど、愚かな事だと思う。

不幸な出来事や苦しみも、それが「罰」だとは限らない。
見方を変えれば「乗り越える為の試練」と言える。

私は、この世に無駄なものなどない、意味の無い事など起こらない、と
信じている。

例えば、自分の病気も、愛する人の死も、絶望のどん底に落ちる事も、人間には必要なことだと思う。
苦しみも悲しみも、いつかその人の財産となる。
そこから学ぶことがいかに多いか。
快楽から得るものよりも、ずっと深く大きく人を育てる。

だからこそ、苦難を乗り越えた人は、人を魅了し、万人の賞賛を得るのではないだろうか。

身に起こる幸・不幸をどう捉えるかは、当人の「心の真理」で判断すれば良い。

1958年、福岡県久留米市で開かれた学会の「第一回男子部九州総会」の講演で、当時、参謀室長だった池田サンは、こう述べた。
(1961年発行「会長講演集第三巻」に掲載)

 大東亜戦争の際、日蓮正宗を国家が弾圧し、創価学会を弾圧し、
 二度の原子爆弾の投下をされております。
 一発は九州、一発は広島。
 日本の国が正法を誹謗した報いです。


アメリカ軍によって投下された原子爆弾を「仏罰」と断言している。

創価学会を弾圧したことが、広島と長崎の人々、子供達、動物達、草木の一本一本に至るまで、罪のない生命を断罪しなければならない程の、「釈尊の真理に背く大罪」だと言うのか。
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2009年03月20日

創価学会は成長し続けるのか

彼が以前私に言った。
「正しくない団体なら、ここまで大きくなってないと思う。」

創価学会は、何故、日本最大の宗教団体にまで成長したのだろうか。
学会の成長を振り返ってみた。

創価学会は、教育者で地理学者であった牧口常三郎によって1930年に創立された「創価教育学会」が前身となる。
発足当初、創価教育学会は、教育改革を目指す団体であったが、牧口は、「所詮、宗教改革によって心の根底から建て直さねば、一切人事の混乱は永久に治すべからず」
と述べ、宗教団体としての活動に力を入れていくようになる。
やがて、2次大戦下での宗教政策に反対した牧口は、戸田城聖とともに神社不敬罪などで逮捕され、1944年獄死する。

そして、終戦後の1946年3月、戸田城聖によって、創価教育学会は
「創価学会」と改称され、この後、学会は飛躍的な発展を遂げることに
なる。

戸田城聖は、本尊を「幸福製造機」と呼び、日蓮正宗の信仰を持てば
必ず幸せになれる、と「現世利益」を強く説いた。
戸田の下、創価学会は「折伏大行進」のスローガンを掲げて、猛烈な
折伏運動を展開し、爆発的に会員数を増やすこととなる。

学会の巨大化は、昭和20年代後半(1950年)から昭和40年代初め(1970年)にかけての高度経済成長期と重なっている。
戸田の説いた「現世利益」は、高度経済成長の波に乗って大都市に
出てきたばかりの人々の求めるところと合致し、中下流階級の受け皿と
なって、多くの会員を獲得することに成功した。
その一方で、強引な折伏が社会問題となり、大きな批判を招く事になる。

1952年、創価学会は宗教法人の認可を受け、1958年、戸田が他界した時には、学会の規模は100万世帯にまで達していた。
そして1960年、現名誉会長の池田大作が第3代会長に就任する。
若干32歳の若さであった。
創価学会は、池田の下、二世・三世・四世、そして海外へと組織を拡大し、現在の公称827万世帯という巨大教団に成長したのである。



創価学会の発展に貢献した学会員一世は、同時に日本の経済成長に
貢献した世代でもある。
必死に働き、家族を養い、自らの手で豊かさを掴んだ世代、現代と比べると、「豊かさ」に対して遥かに貪欲であったと思う。
彼らは、猛烈な折伏を受けて入信し、自らもまた同じ様に人を折伏し、
豊かで幸せな生活を手に入れようと邁進(まいしん)した。

現在の創価学会は、その6割以上を二世・三世が占める様になった。
自らの意思で学会に入信した一世とは、時代背景も大きく変化している。
1991年に日蓮正宗を離れて以来、信仰の希薄化も進んでいる様だ。
公称827万世帯とされるが、活動している会員数は250万人程度と考えられている。

学会の性質は、明らかに変化してきていると思う。
学会の中で今やアイドル的存在となっている池田から、ポスト池田の
時代へと変わる時も、そう遠くない。
その時、池田に代わって、新たに会員を惹き付け、結束させるものが
今の学会にあるのだろうか。

一見、強固な結束力を見せる学会にも、閉塞感が見え隠れする。

「奢れる者久しからず」
アンチの本音としては、このまま衰退していってくれると非常に嬉しい。
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2009年03月17日

フランスによるカルト認定の現状

嶋田氏の『民俗化する創価学会』に、カルトについて意外な文章があったので、要約しておく。

1995年7月、フランス国民議会(下院)の中に、議員30名による「セクト
調査委員会」が設置された。
95年は、日本でオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こった年である。
委員会は、1996年1月、『フランスのセクト』と題された報告書を作成した。
報告では、セクトは次の10の特徴を示すと定義されている。

1.)精神を不安定にする
2.)法外な金銭的要求をする
3.)以前の生活環境との絆を絶つ
4.)身体の健康をそこなう
5.)子供を勧誘し教化する
6.)反社会的な教えを説く
7.)公共の秩序(治安)を乱す
8.)裁判を起すことを重視する
9.)目的を遂行するための財源確保を伝統的な経済活動から逸脱した
  方法で行う
10.)公権力への浸透を図る

委員会は、この定義に従って、172団体をセクトとして挙げている。
日本系の宗教団体では、幸福の科学、神慈秀明会、霊友会、崇教真光、イエス之御霊教会教団、生命教、そして、創価学会インタナショナル・
フランスが含まれていた。

フランスにおけるカルト対策は、ほかの国々に比べて、はるかに進んだもので、徹底したものではあったが、その分、様々な方面からの反発も大きかった。
プロテスタント同盟の議長は、宗教活動全般が反カルト法によって脅か
されていると批判し、当時のローマ法王、ヨハネ・パウロ二世も、下院で最初に反カルト法が可決される直前に、法案の成立に危惧を表明している。

2002年11月、ラファラン内閣は、新たに「セクト的逸脱行為警戒対策本部(MIVILUDES)」を設置し、1996年の報告書は現状にそぐわないとして、それを事実上破棄した。
2004年1月に出されたセクト白書では、危険な組織として、ラエリアン・ムーブメント、サイエントロジー、エホバの証人、直感セラピー、普遍的人間的エネルギー、世界間光文明教団の6つがあげられた。
この通達によって、フランスで創価学会がカルト指定されているという事実は実質的に消滅したことになる。

(参考:『民俗化する創価学会』)


私の創価学会に関する情報は、ネットから得るものが大勢を占める。
しかし、ネットに溢れる情報は、たとえ大多数の意見であったとしても、
正しいとは限らない。

私は、創価学会の危険性を否定するつもりはない。
カルト認定の有無に関わらず、学会の問題は尚余りあると思っている。

しかし、何かを基準において物事を判断しようとする時、私たちは
(学会員、非学会員共に)自分の持っている情報の信憑性について、
慎重かつ厳しい目で判断する必要がある、と改めて思う。
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2009年03月16日

学会活動をする理由

彼が創価学会に入信したのは、高校卒業後、親元を離れて就職した頃で、同じ様に都会に出て就職した幼馴染に折伏されたそうだ。

入会後、何年も未活動だったらしいが、ある時、会合に誘われて出席し、それ以来活動する様になったらしい。
活動し始めて5年になると言う。

彼に「学会の良いと思うところ」を訊ねると、随分と悩んだ末に、
「自分が変わっていける気がする」 と答えた。

最近一番気になっていた事、
「学会が正しかろうが間違っていようが、彼にとってはどうでもいい事なのではないのだろうか?」 という疑問を投げかけてみた。
「もし、学会が嘘や数々の事件が本当だとしても、学会に居続けるの?」
彼は、またしばらく考え後、
「自分で確かめてみないと分からない」と答えた。

彼の主な活動は、会合の出席やお世話、座談会、家庭訪問、役員会、
といったところだろうか。
ちょっとアブナイ会合には、出席していないらしい。
「俺は、ああいうのは嫌いやから」 と言っていた。
アブナイ会合とは、「折伏したい人の名前を挙げて折伏の決意を宣誓」
したりする、イってしまってる人達の会合の事だ。

最近私は、同時中継で見た本部の妄信会員の人達を「イっちゃってる
人達」と呼んでいるが、彼はいつも苦笑いして聞いている。
否定するつもりはない様だ。

数日前、彼にこんなメールを送った。
「私が認めるまで、他の人を勧誘せんといてね。
 まずは、大切な人(なんかな?)に理解してもらう事が先決でしょ!?
 今の【まる】には、人に学会やら新聞やら勧める資格ないもん。
 まあ、部長さんとかは、『疑いを持たずに公宣流布!!』とか言うんかも
 しれんけど。
 私はそんな無責任な事してほしくないし。」

彼は、私の言葉に納得してくれた様だ。
少し安心した。

近く、彼の弟が高校を卒業して、就職の為に上京してくる。
弟は、彼を折伏した友達と同じ市で就職するそうだ。

彼の友達は、弟を折伏しようとするかもしれない。
でも、それは絶対に止めてほしい、と彼にお願いした。
彼のご両親が、入会を認めない事を彼自身が知っているからだ。
そして、彼はご両親に自分の入会を打ち明けていない。

「お母様は、弟さんの上京先にあなたがいる事で
 すごく安心されてると思う。
 お母様を裏切る様な事はしないで。
 家族の平和を簡単に壊す様な事は、絶対にしたらアカンよ。」

彼は、頷いてくれた。
家族の心を守れる人であってほしいと、切に願うばかりだ。
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2009年03月13日

批判に耳を傾けるということ

創価学会について調べていると、しばしば「思考停止」という言葉に
出会う。

------->
「思考停止」とは、そのままの意味だと「考えるのをやめること」である。
我々は日々の生活の中で驚くほど「思考停止」している。

例えばテレビニュースを見ていてキャスターのコメントに納得してしまった時。
これは、相手の考えに迎合し感心しているだけなのに、自分も同じ考えを持ってしまうと「考えるのをやめている」のである。

同じくキャスターのコメントに納得できず怒りを覚えてしまう時。
これは、相手の考えが自分の考えと違うことを許容することができない状態。
自分の固定された考えを変化させることができず「考えるのをやめている」のである。

思考停止してない状態とは、コメントの内容を咀嚼し、そういう考え方もあるということを理解し、新たな自分の考えに吸収させる状態だ。
<-------(ブログ『創価学会の彼女との関係』より)


彼と創価学会について話をする時、正にこの「思考停止」の状態に陥っている様子が手に取る様に分かる。

「思考停止」と言うより、幽体離脱でもしているのかと疑いたくなる。
黙って私の言葉を聞くが、ただ右から左に流れていくだけで、無意識の
うちに理解することを拒絶している様に感じる。

最近心配になり始めた事は、 学会にいかに矛盾があろうと、
嘘をついていようと、非人道的な行為があろうと、
彼にとっては「問題外」なのではないか、
という事だ。

学会の「悪」を認めた上で、尚学会に尽くそうとするならば、私にできる事は残されていないのではないだろうか。

ともあれ、毎朝、顔も洗わずに勤行する彼にひとつ忠告をしておいた。

「お寺にも神社にもお清めの水があって、お参りの前には手を洗って口を
 ゆすぐでしょ?
 顔も洗わずにご本尊に向かうなんて、必ず罰が下るよ・・・。」

学会が「日顕宗の坊主」と言って中傷している大石寺の僧侶の方々は、
もっと自分を律し、礼節を重んじていますよ。
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2009年03月11日

言葉遣いの教え方

3/9の聖教新聞(7面)に、興味深いコラムがあった。

「言葉遣いの教え方」と題して、学会員数名が体験記を寄せている。
その内のひとつを転記する。

〜文芸書に親しむ〜

昔は言葉遣いで、その人の氏素性や育ちまで察せられたものである。
今でも、人となりを知る手掛かりにはなっている。
育ちや人柄は隠しようもなく、言葉遣いに出てしまう。
言葉遣いは毎日の生活習慣の中で自然と身についてしまう。
だから、子供の言葉遣いには、その家の品格まで露出してしまう。
また、言葉は周りの環境に合わせて使うから、環境から受ける影響も
絶大である。
そう考えると、言葉遣いとは教えられるのではなく、見習い、感化される
ものである。
どんなに丁寧な言葉でも、周りとのバランスを欠いては、独り善がりで
浮いてしまう。
コミュニケーションがうまく取れてこその、いい言葉遣いと言えよう。
我が家の方針は、親が見本を示すこと、次いで文芸書に親しませること
であった。
おおむね間違いはなかったと思う。



至極まとも なコメントだと思う。
中には、子供に「池田先生のスピーチや文章を読んで聞かせている」
というものもあったが。

罵詈雑言の溢れる聖教新聞に、この様な記事が掲載されているのが何とも不思議なのだが、この体験記を寄せたご本人は、日々、聖教新聞を読み、何を感じているのだろうか。
是非、うかがってみたいと思う。
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2009年03月10日

創価学会の理念

創価学会のHPで、学会の理念を見ることができる。

  その目的は、仏法の実践を通して、一人一人が真の幸福境涯を確立
  するとともに、生命の尊厳を説く仏法哲理を根本に、恒久平和、
  豊かな文化、 人間性あふれる教育の創造を推進し、人類社会の
  発展に寄与すること。


とある。

2月の同時中継の後、彼に"部長サン"を紹介してもらい、2時間ばかり
話を聞いた。
創価学会が、何を目指し、どんな活動をしているのか教えてほしい、
という私の要望に、部長さんが出向いてきてくれたのだが、その時彼も
「平和・文化・教育」を強調していた。

しかし、何か腑に落ちない。

「万人の幸福」と「世界の平和」の実現が創価学会の根本の目標
・・・なのはいいが、学会(学会員)が、
自分の家族の平和・隣近所との平和・他宗(団体)との平和
を蔑ろにしているのは何故なのか?

 - 彼の学会友達は、不倫がバレて家族の平和をブチ壊した。
 - 私のご近所の学会員宅は、夜遅くに座談会をして近所迷惑。
 - 選挙の度に、学会員は一般人に煙たがられる。
 - 四六時中、裁判沙汰を抱えていて、争いが絶えない。


世界平和の前に、まず、手に届く範囲の平和を築いてほしい
ものです。

日蓮大聖人の仏法を実践し、各国の繁栄と平和を願い活動している
・・・のもいいが、日蓮の教えを世界中に公宣流布する目的は何なのか?

文化とは、全く異なった習慣や考え、宗教を持つ人間によって
生み出され、その国、その土地に根付き育てられてきたものだ。
民音が企画するオペラ、バレエ、クラシック音楽も、東京富士美術館の
西洋絵画も、西欧の人々によって生み出され、キリスト教など宗教文化
の影響も多大に受けている。
「豊かな文化」のあるところには、国境も 宗教の壁 もなく、素晴らしさを
認め合い、心通い合う人々がいる。

必要なのは、学会員の文化レベルを上げること だ。
広めるべきは、日蓮仏法より 異文化を受け入れる豊かな心だ。

学会が唯一、学会が王者と妄信する人達に、文化を語る事などできは
しない。

"部長さん"は、「具体的に」何をしているのか、という私の質問に、教育面では、創価学園や創価大学などの教育機関がある、と答えた。
が、創価学会だけじゃないでしょ、それ。
天理教も学校はあるし、天理病院はかなり立派な病院だ。
キリスト系の学校もいくらでもある。
宗教法人なんだから、普段からもっと仏法を勉強してはいかがだろうか?
簡略化してみたところで、若い学会員達は、益々御書から遠ざかって
いるのでは?
仏法の勉強そっちのけで、お題目に幸せを託して功徳を得ようなんて、図々しい気がしますが。

お題目唱えて願いが叶うなら、今度、
「彼が創価学会を辞めますように!!!」(←学会風)
って唱えてみようかな。
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2009年03月06日

脈絡のない学会員

昨晩の彼とこんなメールのやり取りがあった。

私:「今、和紙の写真立て作ってる。(私の趣味です)
   いいデザインが思い浮かばなくて悩んでるとこ。」

彼:「完成したら、俺とミル(私)のツーショット写真でも飾ろうか。」

私:「そうねぇ。
   いつか、神社で白無垢着れる日が来たら、その写真を飾るわ。」

彼:「楽しみ〜。」

私:「【まる】が創価学会にいる限り、叶うことのない夢だけど。」

彼:「もうやだ〜(悲しい顔)(←こんな感じの絵文字)」

私:「一緒に初詣のお詣りもできないくせに、神前結婚はいいの?
   チャペルはどうなん? 神に誓えるの?
   クリスマスにはやたら拘ってたけど・・・。
   創価学会のその脈絡の無さがキライ。」

彼:レスポンスなし


私は、かなりずばずばと物を言うタチなので、彼が黙り込んでしまうことはしばしばある。
本当は「脈絡のない【まる】がキライ」と書きかけたのだが、敢えて
「創価学会」にしておいた。

しかし、まぁお粗末な思想だ。
去年のクリスマスイヴは、やたら一緒に過ごしたがっていたっけ。
却下したけど・・・
お正月は、天満宮には付いてきたものの、お詣りはせずに、足早に
立ち去った感じだった。
なら付いてくるなよ!
そのくせ、神社の結婚式は楽しみなんですか。

こんな人間に、折伏やら聖教新聞の営業やら出来そうにもないので、
安心と言えば安心かも。
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2009年03月04日

おくりびと

彼と『おくりびと』を見に行った。

今年に入って毎月1日、映画を見に行っている。
1月1日は『私は貝になりたい』、2月1日は『マンマ・ミーア』、そして今月は『おくりびと』。いつも私が決めて、彼が着いて来るパターンだ。

彼の大好きな映画は『スターウォーズ』、TSUTAYAで選んだのは、『プライベートライアン』、『ゲーム』、『トップガン』だった。
アニメも比較的好きな様で、『あらしの夜に』やジブリ作品を一緒に見ている。
まぁ、彼の映画の趣味はどうでもいいのだが、『おくりびと』は然程、彼の興味を引かなかった様だ。
終演後、「ところどころ寝てしまった」と言っていた・・・

さて、本題に入るが、この映画でまず心に沁みるのは、納棺師の所作の美しさではないだろうか。

納棺師は、死者を敬い、その人にこの世の最後の美を施し、遺された人々に死者の安らかな旅立ちを伝える。
外国メディアにも「死者へのお悔やみと崇敬の気持ちを紡ぎ出す儀式」と報じられ、日本独特の葬送文化の美しさを紹介する機会となった様だ。

映画の後で調べてみたのだが、「所作」とは仏語で、
『身・口・意の三業が現れること』 を意味する。
「身業(しんごう)」とは、"身体で行うすべての行為"
「口業(くごう)」とは、"言語表現による行為"
「意業(いごう)」とは、"思考・判断・意志などの心の働き"

納棺師という、ともすれば敬遠されがちであろう人に、日本人のみならず、文化を超えて多くの人々が美しさや優しさ、温かさを感じるのは、正にこの三業、すなわち「美しい振舞い」「敬意ある言葉」「お悔やみの心」が合わさった所作を見たからなのではないだろうか。

本木雅弘さんのコメントに「死という個人的な、共感に届くテーマを、温かい光が見えるように描いたことが新鮮に映ったのだと思う」 という言葉があった。

なるほど、『おくりびと』の中で、死は必ずしも悲しい出来事として描かれていない。
そこには、安らぎがあり、穏やかさがあり、笑いがある。
それは、納棺師によって遺された人々に与えらた贈り物であるかの様だ。
本当に素晴らしい仕事なのだと、そしてまたひとつ日本文化の美しさを教えられた映画だった。

私は、創価学会の方々にも是非この映画を見て頂きたいと思う。
そして世界に通ずる日本文化の美しさ、三業の合わさった所作について考えてほしい。

学会が「精神後進国」と公言する日本の葬儀文化を、世界が賞賛した。

そして、学会で氾濫する言葉や振舞いを、私たち日本人も世界の多くの人々も決して美しいとは感じないのだ、という事に気付いてほしい。
  
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2009年03月03日

他宗教に対する中傷

彼は、「学会はお金がかからない」と言う。
本人曰く、財務をしていない様だ。
聖教新聞は購読しているものの、その他の出費はないらしい。
まぁ、彼は常に金欠状態の人間なので、「払うに払えない状況」と言う方が正しいのかもしれないが・・・。

今日、ちょっとした話の流れから、また「学会はお金がかからない」話に
なった。
その際、彼が「天理教ってお布施がすごいらしい。」と言い出したのだ。
私は少々機嫌が悪かったので、即座に「興味ない!」と遮ったが、
彼は全く悪びれた様子もない。

しばらくして彼にこう伝えた。

【まる】は、天理教の何を知っているの?
確かに、天理教にも多額のお布施をしている人はいるでしょうね。
同じ様に、創価学会にも何百万円と財務をしている人はいるでしょう?
一体、天理教と学会で何が違うというの?
根拠のないその言葉を「中傷」って言うのよ。
学会の人の受け売りで言ってるんでしょう?
学会内に、そういう他宗教への中傷が多いという証拠やね。
とても聞き苦しい。
私の前でこういう発言は許さないからね。

愚かで軽率な発言だという事に、気付いてくれただろうか。
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2009年03月02日

彼の弁論?

私は、学会に生理的に馴染めない理由を、以下の様に述べた。

@異常な団結感、マス行動、徹底した上意下達、強烈な個人崇拝
A個人のアイデンティティーが感じられず、軍隊的
B他人との一致・一体感に快感を得る集団意識の異常な強さ
C創価仏教の色が濃厚であること
D一般人に理解し難い世界であること


彼は、私の気持ちを理解できるらしい。
自分は、既に慣れてしまったから違和感はないが、学会外の人間が会合を見て ドン引きする気持ちは分かるそうだ。

会合の中で学会員達は、池田氏の言葉に一々拳を上げて返事をし、
(ハイルヒトラーの真似事かと思ったが・・・)
誰もが声を張り上げてスピーチし、それに全員一致で拍手喝采。

彼に「あの場にいたら、【まる】もあの人達と同じ様にするの?」
と訊ねると、「そこまでは・・・」 という曖昧な返事が返ってきた。

「本部の会合に出席している人達は上層部の人達ばかりで、自分が実際にその場にいるなんてあり得ないから、分からない」 そうだ。

私には、彼の頭の中がイマイチ分からないし、掴めないのだが・・・。


具体的な感想として、まず、「言葉遣い」について批判した。
元学会員や日蓮正宗に対する口汚い言葉が、非常に聞き苦しかったからだ。

「言葉」は、その人の品性・品格を表すもの。
口汚い人からは、心の荒み、寛容さや優しさの欠如を感じる。

会合で使われている言葉は、とても宗教人とは思えないし、仏教を尊ぶ人の内面の美しさを垣間見ることすらできない。

普段からこういう言葉を見聞きしていると感覚が麻痺するのか?
自分の発言も学会の影響を受けている自覚があるか?
この様な言葉を会合に出席している子供達に聞かせて問題がないのか?


私の意見を、彼は「正論」だと思うそうだ。
「言葉遣いに関して聞いてみる」と言っていたが、おそらく部長さんあたりに聞くのだろう。
近々、座談会に出席するつもりなので、彼には是非その場で問題提起してほしい。

彼のアタマがどこまで学会に染まっているのか、よく分からなくなる事がある。
ただ、彼が学会について非常に無知であることは確かだ。
彼の情報源は、身近な学会員と聖教新聞が全てという、非常に閉ざされた世界にいる。
おそらく、多くの学会員に共通する事だと思うが、新しい情報を自分で探し出そうとする意思がないのだ。
  
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2009年02月23日

学会について彼と討論する

私が創価学会を否定する理由を、彼は単純に

@私は新興宗教が嫌いだから
A私の家族が反対するから
B隣家の座談会が夜遅くてうるさいから

という、至極表面的な理由からだと思っていた様だ。

今までにも、何度か具体的な学会批判をした事があるのだが、どうやら彼の頭には残っていなかったらしい。
本能的に、そういった批判を記憶から排除しているのだろうか??

彼とどの様なカタチで学会について話し合えばいいのか迷っていたが、これはいい機会だと思った。

『私が学会を拒否する理由は、そんな表面的な事じゃないの。
学会について不可解だと思う点がたくさんあるから、ひとつずつ【まる】の言葉で説明してくれない?』
という私の提案を、彼は 『いいよ』 とあっさり承諾した。

彼は、インターネットや書籍の批評を、事実無根の誹謗中傷だと思い込んでいる。
全く根拠のない思い込みなのだが、思い込んでいる人間と話をするのは本当に難しい。
しかし、彼と共有している事実であれば、いくらでも討論できるのだ。

私は、先日出席した学会の会合と、会合の後(地区?)部長と話したことについて、私の意見をノートに書き出し、彼に手渡した。

すぐに結果を求める事はできないだろう。
私の言葉が彼の理解を得る保証もない。
寧ろ、彼が学会を否定する可能性は極めて低いと思う。
だが、彼と共に考える日々は、必ず私の糧となり、
いつの日か彼の支えとなると信じたい。
  
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2009年02月18日

勝負に勝つということ

学会の会合と聖教新聞を見て印象に残ったことのひとつに
「勝負に勝つことへの拘り」 がある。

なぜここまで「勝つ」ことに重きを置くのか、
なぜここまで「勝ち続ける」ことを声高に叫ぶのか、

私にはとても不思議に思える。

学会の叫ぶ「勝利」とは何なのだろうか?
学会員がお金持ちになることなのか?
折伏や新聞啓蒙の目標を達成することなのか?
日蓮正宗やマスコミとの裁判に勝つことなのか?
公明党が選挙に勝つことなのか?

「現世利益主義」の学会(員)にとって、「勝つ」=「幸福」である事は、分かる気がする。

しかしこの様な俗世の勝利への拘りは、単に欲と権力に執着しているに
過ぎないのではないか。

池田氏は、今回の会合の中で
「仏教の教えとは、証拠主義、結果主義だ」
と言っている。

一般人であれば、誰もが思わず「はい!?」と突っ込みたくなるセリフだ。

大切なのは、結果ではない。そこに辿り着くまでの過程で得るものだ。
「勝ち負け」が問題なのではない。
人は「負け」から学ぶことの方が多いのだ。
挫折、苦悩、悲しみ、失敗を何度も繰り返して、人は本当の幸せ、喜びを知り、成功と勝利の意味を知るのではないか。
個人であろうが、団体であろうが、勝ち続ける必要などない。
いや、不完全な人間の集まりなのだ。そんな事は不可能だ。
寧ろ、自らの負け、弱さ、未熟さを素直に認める勇気と強さこそが必要なのだと思う。

池田氏は、更に「永遠を見つめる時、今世の小難など云々」という様な事も言っていた。
その小難に対して、一々裁判を起こして言い争っているというのに。
本来、宗教団体たるものがここまで裁判にのめり込み、俗世の権力にその正しさの証明を求める必要があるのか。
  
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2009年02月14日

中道の教え

ここ3年ほど時々お寺参りをしている。
そのお寺にお供養をお願いした人がいるからだ。
今日も、お参りをしてきた。

お寺に行く途中、彼との電話で、今日は学会の役員の仕事に出ていると知った。
一気に気持ちが沈み込み、泣きたくなった。
涙がこみ上げてきた。
こんな些細な事が、心に重くのしかかってくる。
彼を見守りたいと思いながら、自分の心の狭さから抜け出せない。
そんな自分に苛立ち、また涙が溢れてくる。

お寺の地蔵堂に貼ってあるポスターの言葉をいつも繰り返し読んでいる。

   この世に存在するもので無駄なものなど何一つない
   プラスになる様に、プラスになる様に考えて
   生きることが大切ですぞ


お釈迦様の教えとはいかなるものなのだろうか?
「中道の教え」という冊子が目に留まり、少し読んでみた。

   仏教の本質は中道にあります。
   中道の教えを守り、バランスのとれた生き方をすること、
   かたよらない心で生きることが大切なのです。
   中道とは、極端を避けることです。
   どちらかに属していたとしても、
   その偏向に気づき、中正に戻すことが大切です。


『解夏』 という映画を観た時に、仏教の教えに触れたと感じた事がある。
「解夏」とは、「夏安吾」を解くこと。
「夏安吾」とは、雨期の草木虫が生まれ育つ時期に、僧侶が外出してそれらを踏み殺してしまうことなない様、お寺などに篭って修行した事をいう。

映画の中では、主人公が徐々に視力を失い失明に至るまでの様子が描かれているのだが、主人公がある僧侶に、
「視力を失う時があなたの 『解夏』 です。」 と言われるのだ。

長い修行が終わる時、苦しみから解き放たれる時という事なのだろう。

仏教に限らず、宗教の教義とは、慈悲、慈愛に通ずるもの だと思う。
万物を愛し、慈しむ心こそ、宗教の目指すものではないのだろうか。

創価学会ではどうなのだろう。
明日、彼と「会合」に出席する。
彼の心に、学会の思想はどんな風に入り込んでいるのだろう。
  
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2009年02月13日

人を思い遣るということ

昔読んだ瀬戸内寂静さんのエッセイに 『おもいやり』 についてこんなことが書いてあった。

   人を思い遣るということは、その人の苦しみや悲しみが
   どんなものであるかを想像し、それに共感することで
   生まれるものだ


記憶が古いので細部は違うかもしれないが、この様な意味合いの事が書かれていた様に思う。

昨晩、彼にこの 『おもいやり』 の話をした。

彼は決して悪い人間ではない。
・・・と思うが、どうも 思慮が足りない
それ故、彼の知人に対する行為が、その人を傷つけていることに気付いていない、と思ったからだ。

物事を深く考える事をしないから、人の気持ちに気付くことが
できない。

つまり、それは 『おもいやり』 がないということではないのか??

学会という組織の中で、彼は組織に甘え、言われるがままに人を信じ、与えられた職務だけをこなし、それに満足してしまっている。
断言はしないが、彼の行動を見ていると、そういう気がする。

彼には、自分の力で考え、悩み、結論を出し、行動する力がない様に思う。
その様な人間に、自分の知り得ない他人の苦しみや悲しみを理解し、想像し、共感することができるだろうか。

私に学会員である事を打ち明けた時もそうだ。
本来なら、付き合い始める前に打ち明けるべきことだ。

私にとっては 人生を左右する大問題 なのだから。

しかし、彼は自分にとって 「学会が必要不可欠なものである」 という結論を出していながら、私にとって学会員と付き合うという事がいかに重大な問題であるかという事にまで考えが及んでいないのだ。

「そこまで拒否されるとは思わなかった。受け入れてもらえると思っていた。」

という彼の言葉は、あまりに根拠のない、自分勝手で傲慢な考えではないか。

私の言葉を彼は黙って聞いていた。
彼は素直なのだ。
その愛すべき人間性を、学会という組織の中に埋もれさせてほしくない
と思う。
  
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