2009年06月06日

一家和楽の信心

学会員の家庭において、信仰が家庭不和の原因となっている例は少なくない。
本来、人を幸せにする為の宗教が、信仰に傾倒すればするほど不幸の要素を作り出している様では、本末転倒甚だしい。

幸せや平和は、自分ひとりのものではないはずだ。人と人の繋がりの中に感じてこそ、そこに本当の意味での幸せが生まれるのではないかと思う。

創価の妄信会員は、兎角、物事の順序を取り違えがちではないだろうか。
彼らは、何事にも「創価は正しい」という大前提を置き、その後に諸々の現実や問題を付随させて考える。
例えば、返済しなければならない借金があるのに財務やマイ聖教を優先したり、親としての責任(家事や子育て)を放棄して学会活動に明け暮れたり、活動の為に仕事をおざなりにしたり。

彼らが道を誤っている事は明らかだ。
学会員のAさんによると、こうした良識ない行動は『法を下げる』と言うらしい。

かつて、戸田城聖は「一家和楽の信心」を説き、「供養は苦しんでやるものではない」と指導していた。

「経王殿御返事」講義より引用 (1957.7.18 大阪市中之島公会堂)

金のないのに出す必要はないぞ。そんなことで金を出してもろうては、わしは困る。貧乏人からまで金をもらってやるわけにはいかん。だから、そんな大講堂の方への寄付金などは、君はやめ給え。
(中略)
供養というものは、そんな苦しければやらなきゃいい。楽しんでやるようでなければ供養になりません。だから、そんな苦しければ、ご供養なんかやめなさい!これはわしの命令だ!するな!しないでよろしい!誰のためにするんだ?自分のためにするんじゃないか。俺のためにしてもらうんじゃない。やめろ、やめろもう!心に少しの負担を感ずる者はご供養はしては相成りません。功徳にならないから。


この考え方は、現在の創価学会でも変わってはいないはずだ。
しかし、多くの学会員は、こんな風に思っていないだろうか。

 ・苦しい時ほど財務を頑張ることが功徳につながる
 ・財務はいつか何倍にもなって返ってくる
 ・聖教新聞は読まなくても買うことが信心の証
 ・学会が為そうとしている大儀の為には家族の犠牲も止むを得ない
 ・仕事で責任を果たす事より、学会活動の方が世の為人の為

現在の学会で、この様な偏向した指導が積極的に行われている。
その目的は、ひとりひとりの会員の為ではなく、学会組織を守る為、ひいては池田サンを守る為、それに尽きる。

『新・人間革命』第4巻「凱旋」の中に、この様なくだりがある。

学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である。
これに勝る供養もなければ、大善もない。
ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。


前述の戸田城聖の言葉と比較してみてほしい。
そして、かつての池田サン自身の言葉とも比べてみてほしい。

 創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も
 寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。

(1962.6.16 聖教新聞より)


この数ヶ月、彼を見ていて感じた事でもあるが、創価学会は末端地域においては、ある意味素晴らしいコミュニティを作り上げている。
しかし、素晴らしいコミュニティとは、互いを矯正し合える関係でなくてはならない。親としての責任、社会的責任を見失っている人達に、誤りを指摘し、正しい道へ連れ戻す事が、良きコミュニティの姿であり、宗教人としてのあるべき姿だと思う。

信心とは、巨大組織の歯車になる事ではない。
組織の大儀の為にたったひとりの人でも犠牲にするべきではないし、ひとりの犠牲者も見過ごすべきではない。
人の不幸の上に成り立つ幸せなんてあり得ない。
誰かの幸せを犠牲にして築かれたものに何の意味があるだろう?
  
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2009年05月27日

法華経の来歴

『日経ビジネスオンライン』 というメルマガを登録している。
登録しているだけで、ほとんど読んでいなかったのだが、「諜報謀略講座」というコーナーの中に面白い文章を見つけたので、ご紹介しておこうと思う。

簡単に要約したものを載せるが、法華経の成立にまつわる、とても興味深い話なので、創価学会員の方にも熟読されることをお薦めする。

第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖
(東京農工大学教授 松下博宣)

(以下、要約)
法華経が書かれたのは釈尊滅後からほぼ500年後、紀元前50年から紀元前150年くらいのことである。
仏教経典に精通する博覧強記の僧である智は、「全ての御経はお釈迦様が説いたことがらを記述した正当なテキストである」という大前提のもとで、次のように経典の価値を判定(教相判釈)した。
お釈迦様は、最初に華厳経をお説きになった。その教えが難しいため、次に平易な阿含経をお説きになった。そして、方等経、般若経をお説きになり、最後の8年間で法華経と涅槃経をお説きになった。そして最後に説いた法華経がお釈迦様の最も重要な教えであるとした。
これを五時教判という。
しかし、智の前提「全ての御経はお釈迦様が説いたことがらを記述した正当なテキスト」は、実は間違いだった。近年、内外の学問研究によって法華経は仏陀釈尊直説を記した経典ではないということが歴然と判明している。
日本に伝わった中国経由の仏教の正当性、正統性が問われる一大事である。日本の仏教徒は、ある意味、偽物の経典を信じて(信じさせられて)きたことになる。そして法華経の影響は、仏教界はおろか、政治、経済、教育の諸制度にまで甚大に及んでいる。
“de facto”とは「作られたるがゆえの」を意味するラテン語だが、ある時代の人材がインテリジェンスをもって次の世代に熱烈な信仰者を生む仕組みを作り、そこから新たな才能を持つ人材がまた別のインテリジェンスをもって次の世代の熱烈な信仰者を生む仕組みを作っていく。この精巧なインテリジェンスの連鎖により、時代や地域を超えたデファクト・スタンダードを作り上げる「強い力」が生み出された。


第6講:語られ得ぬ法華経の来歴

(以下、要約)
法華経創作は、大衆部の僧らが原始キリスト教の福音を参照した(影響を受けた)可能性がある。
その根拠として、第一に、法華経の成立時期とトマスによるインドへのキリスト教伝道の時期が符号するという時代背景。第二に、法華経の構成論理が、上座部系の経典には全く見られず、仏教の脈絡からは隔絶したものであり、かつ福音書の論理構成と同型であること、がある。
法華経は、一乗妙法、久遠本仏、菩薩行道を、法華経の真実性、絶対性、優位性とともに繰り返し説く。福音書は、イエス・キリストのみを救い主として信じ、十字架による罪の償いを受け入れ、その教えを他者に伝えることで誰もが等しく救済されると説く。両者の論理構成は同じなのである。
また、法華経に多用されている「如是我聞」という文言は非常に重要である。「法華経」フィクション・ライターは、独自のストーリーを作り上げ、「如是我聞」=「私はこのように直接お釈迦様からお聞きしました」と虚偽の言説を埋め込んだのである。
インドの「法華経」フィクション・ライターの共同謀議による経典捏造の社会的インパクトは広大無辺といっていほど甚大なものであった。仏教経典のデファクト・スタンダードとして、ユーラシア大陸東部のほぼすべての地域で広く流布し、漢語、チベット語、ウイグル語、モンゴル語、満州語、朝鮮語にまで翻訳されて伝播した。2000年という長きにわたる歴史に浸透させることに成功したからだ。日本でも大きな影響を及ぼしたことは前回述べたとおりである。
1900年くらい前に、「如是我聞」という4文字が物語に加えられ、それが仏教経典になった。約1900年後に、遥か東方の日本で選挙が行われ、その仏教経典をかつぐグループに関連する政党が政治の動向を左右している。事後的に歴史を振り返れば、法華経の来歴にはありありとバタフライ効果(初期値の小さな差が思いもよらぬ差となって結果に表れること)が見てとれる。
この欺瞞工作、ノイズ挿入を仕掛け、後の世に途方もないバタフライ効果を放った一派は、天才インテリジェンスの集団である。法華経を創作して後世に伝播させたインテリジェンスの天才達は極楽浄土からこの不思議な風景を見下ろしてニヤニヤ笑っているのだろうか。あるいは地獄に堕ちて、事の顛末を見上げて苦しみもがき懺悔しているのだろうか。

  
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2009年05月20日

宗教と現実の相違

メルマガ『目からウロコの仏教入門』を読んでいる。
18日配信の「宗教と現実の相違」から、一部引用してご紹介する。

── 宗教と現実の相違 ──

自分と同じ宗教をその人も信仰しているからと言って、決して安心してはならない。
その人が自分と同じような考えであると思ってはならない。
あくまでも宗教とは漠然とした、観念的なものであり、現実における具体的な判断の仕方は、また別個なのです。

宗教と現実は異なるのです。
現実はとても重いものです。
宗教と、現実生活における思想が乖離していたとしても仕方がない。

ですが、それでいいのだと思うのは間違いです。
乖離したままで良いと思うのは間違いです。
ならば、その人にとって宗教は趣味に過ぎない。
宗教と現実の乖離を、できるだけ近づけねばならない。
近づけて行こう。
そう思って励むことこそ、修行なのではないでしょうか。

残念なのは、乖離していることに気づかぬ人であります。


(引用ここまで)

要するに、理想と現実のGAPに気付き、その溝をいかに埋めていくか。
認知的不協和の生じる現実を直視し、安易な認知修正に走ることはないか。
時に自分自身を省みる事が必要なのだろう。

宗教が謳う正義やモラルに反する信者や組織の言動に気付いた時、宗教理念に従えば、これを指摘し軌道修正すべく働きかけなければならない。
けれど、巨大組織の中でそう出来ない現実に直面する。
多くの人は、その他大勢の信者の意見に沿う様に、自分の考えを修正してしまう。

−これだけ多くの人が信仰しているのだから、間違っているはずがない。
−多くの信者の中には、過ちを犯す人もいる。
−組織悪は、世の中の悪と闘う為に必要なことだ。

認知的不協和を解消する為に、軸となる正義やモラルの方を捻じ曲げて修正してしまうのだ。
何故なのか?
現実に直面するより、遥かに楽に問題を解決できるからだ。
そうやって、本来の宗教理念とはどんどんとかけ離れたところに向かっていってしまう。
そして、自分と組織に都合良く作り上げられた思想と、本当の姿を映さない捻じ曲げられた現実だけが残ることになる。


『目からウロコの仏教入門』は配信無料なので、考え方の違いを感じるところも諸所あるものの、拝読している。
ご興味のある方は 配信登録 されてみてはいかがだろうか。
  
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2009年05月19日

支え合ういのち

阪神淡路大震災の時のこと。
神戸に住んでいた祖母と親戚一家、親戚の老犬が我が家に避難してきた。
このワンコ(おばあちゃん犬)は、震災による疲労のせいであったか、老衰であったかはっきりと覚えていないが、我が家に来た時には、もう、ごはんにも散歩にもウチの愛犬(元気盛りのオス)にも興味を示さず、声を出すことすらない程に衰弱していた。

ところが、我が家の愛犬は、このおばあちゃん犬に、“大変”興味を持ったのだ。
彼女をターゲット内の女性と判断し、精力的に追い回し始めた。

この積極的(なりふり構わない?)アプローチに“女心”を触発された(?)おばあちゃん犬は、数日のうちに驚異的な若返りを見せて私たちを驚かせた。
彼女は、モリモリとごはんを食べ、散歩中も力強く歩き、鬱陶しくまとわり付くウチの愛犬に吠えかかるようにもなった。

この事件を思い出す度、神秘的な様で、実は何よりも自然な事なのだと感じ入る。
老いを感受し、静かに最期を待つ老犬の心が、若さ溢れる生命力に触れ、その体に生きる気力が蘇ったのだ。
動物の心は純粋なだけに、こうした現象が顕著に現れるのではないかと思う。

このおばあちゃん犬は、我が家を去ると、また以前の状態に戻り、その後間もなく静かに永眠した。

人間も、年齢に関わらず、他人から気力や活力を与えられる機会は多い。
落ち込んでいる時に励ましてくれる人から、悲しみを共感してくれる人から、悩み事を相談できる人から。
独りで生きていくことは、人間にとっても動物にとっても、とても厳しいことであり、支え合うことのできる存在が、相互の生命力の糧となっている。
こう考えても、考え過ぎではないと思う。

創価学会のコミュニティの中には、こうした支えあう力が大きく働いているのだろう、と思う。
共依存、MC、信仰を条件にした関係であったとしても、「救われた」と感じる人は確かにいるのだ。
大げさな言い方かもしれないが、いのちの糧を得ることができた組織に、その人間が心酔していくのは当たり前だろう。
人と人の繋がりが希薄な現代社会にあって、こうしたコミュニティが大きな魅力となっている現実は否定できないのではないかと思う。
もちろん、これは末端組織に限られたことであって、組織の中枢は善良な信者を食い物にして肥大しているのだが、幹部の悪行が、盲目となった末端信者の目に映ることはない。

もし、善良な末端会員たちが、組織の悪業に気付き、自分たちの力で創価組織を変えていってくれたら・・・。
そして、日本社会にも、政治が変わり、メディアが変わり、一般人の意識が高まり、社会全体にその歪みを正そうとする自浄作用が起こってくる可能性はないだろうか。
   
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2009年05月17日

別れ

彼に、もう会うつもりがない事を伝えた。

三度の「ポイ捨て」が堪えた。
やはり、宗教人として、いやそれ以前に社会人として当然持つべきモラルが備わっていないのは、彼自身の責任だと思った。
本来、宗教活動を通してこうした意識改善も為されるべきなのだろうが、あの攻撃的な会合で環境意識が養われるとは思えない。しかし、彼のモラルの欠如の原因を、創価の教義に帰するにも無理がある。
彼自身の人間性の問題だろう。

彼が、この愚行の為に私に見限られる事になっても、創価に捨てられる事はないだろうから、ある意味安心はしている。
彼が、今回の事をどこまで内部に告白するのかは知らないが、妥当な落ち着き方はこんなものだろう。

「確かに彼女の言う事は正論ですね。今後気をつけていきましょう。
彼女が創価学会を批判するのは、私たちの事をまだ十分に知らないからでしょう。
けれど、君が彼女を同中や座談会に連れて来た事は、とても意味のある事ですよ。君の行いは『下種』となっていつか花開くはずです。
数ヶ月間、彼女の批判に耐えて、よく頑張って対話しましたね。
彼女もいつかきっと、創価学会の正しさを理解してくれるでしょう。」

想像(創造)し過ぎだろうか?当たらずとも遠からず、といったところか。
何にせよ、彼は創価と共に、「彼が」幸せだと思う道を進んでいくのだろう。

私の思いが通じなかった事は、悔しいし残念でならない。
昔付き合った人とも、しょっちゅう思考が噛み合わず、何度も何度も歯痒い思いをした。
でも、どんなに涙ながらに訴えても、通じない思いはある。
他人に思いを伝える事が不可能だと言っているのではない。
どんな情熱や愛情を持ってしても、それだけではダメなのだ。
同じだけの忍耐と根気と思いやりと、そして想像以上の時間が必要なのだと思う。

今私が直面している問題は、宗教的思想の違いに加えて、人間の品格を問う価値観の違い、それは「ポイ捨て」だけではなく、金銭の問題にも及んでいる。
私には、これ以上、彼を支え、先の見えない時間を彼と共に過ごす「意味」を見出すことができない。
  
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2009年05月15日

八百万の神様

日本人の宗教には、古来、神様と仏様が共存してきた。
神仏習合は日本の文化であり、現在も私達の生活に根付いている。

寺院、神社、天満宮、稲荷大社、私達は神様仏様を同じ様に大切にし、折々手を合わせる。
家の中に神棚と仏壇があったり、お寺に鳥居があったり、日本人は合理的かつ柔軟に神仏を共存共栄させてきた。

私は「スタジオジブリ」の作品が大好きなのだが、宮崎アニメの中には、必ず<神>の存在がある。
風や、森や、川の神様が、いろんなカタチで登場する。

そうした万物への崇敬の念は、大人たちの感動を呼び起こし、子どもたちの心に自然と溶け込む。そして、自然や生命への愛情、時として畏怖の念を抱かせる。
そうした感情が、人の心を豊かにしていくのではないかと思う。

多感な幼年期に、たったひとつの固定観念を押し付けることは、豊かな感性を損なうことになりはしないだろうか。
日蓮の、創価の教えだけが正しいと刷り込まれた2世、3世の方々の成長後の苦悩が、ネット上には溢れている。
信仰を子供たちの足枷にした親の責任は、計り知れないものがあるのではないだろうか。

信仰が本来の意味を失わない限り、その真偽や優劣を問う必要などないはずだ。
創価の掲げる「平和」「教育」「文化」は何も創価特有のものではなく、どの宗教団体も目指すものは似たり寄ったりなものなのだから。
それぞれの宗教が、それぞれのやり方で信者を救い、共栄共存していけば良いではないか。
開放された精神で万物を敬うこと、本当の祈りとは、その様なものではないだろうか。
「我こそは」と他を押しのけ、のし上がろうとするから、反感を買い嫌われるのだ。
釈尊も八百万の神々も、何と愚かしい事よ、と嘆いているに違いない。
  5/19 追記
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2009年05月14日

ポイ捨て

GW中に友達に誘われて、『フジコ・ヘミング』のピアノコンサートに行った。私は、幼少期から二十歳頃までヴァイオリンを習っていたので、クラシック音楽に割と馴染みがあるが、ピアノのソロコンサートは初体験で、『フジコ・ヘミング』 という名前も「聞いたことあるな〜」程度だった。

オフィシャルサイト 【INGRID FUJIKO HEMMING】 に、こんな事が書かれてある。

(引用)----------------->
公演活動で多忙を極める中でも、米国同時多発テロ後の被災者救済のために1年間CDの印税を全額寄付を決定や、アフガニスタン難民のためにコンサートの出演料を寄付したりと、人を愛し人を支援し続ける事を忘れないのも彼女の人間味溢れる魅力のひとつで、その優しさは猫や犬をはじめ動物愛護への深い関心と援助を長年続けていることにも現れている。
<------------------------

今回の公演もチャリティーコンサートで、私も僅かばかりの寄付をさせて頂いた。

タイトルと全く関係のない様な書き出しとなったが、人を助けること、いきものを愛すること、自然を保護すること、どれも生命に対する慈しみの表れで、何かひとつを切り離して考えることはできないと思う。

「ポイ捨て」は、彼が私の目の前でやった。それも、3度目だ・・・。

1度目も2度目もメチャメチャ怒った。
人間として当然のマナーも守れないくせに、何が仏教だ。
「創価は素晴らしい」だの、「世界の平和」だの言う前に、自分が捨てた吸殻を誰が掃除するのかを考えた事があるのか。
創価は、そんな基本的な生き方すら学べないところなのか、と。

兎も角も、私は彼の「ポイ捨て」を2度見逃した。
それ以後は、そのサイテーの行為を目にする事はなかったのだが・・・。
彼は、意外にあっさりと「地雷」を踏んでくれた。

彼は犬が好きで、連休中に何度か、私のワンコと一緒に散歩に行った。
ワンコも喜んで、元気に走り回っていたし、彼もそんなワンコを見てとても楽しそうだった。
そんな絵に描いた様なひと時をブチ壊してくれたのが、彼のポイ捨てだ。

私は、彼にこう言った。

「意識レベルが低すぎると思う。これは、もう人間性の問題なんかな。
これまで、創価学会を含め、自分の周りにその行為を注意してくれる人はおらへんかったん?
むしろ、同じ愚行をする人達ばかりとしか思えへん。
『心がける』というレベルの問題ちゃうで。
やらへんのが『当然』やねんから。」

少なくとも、創価という「教育組織」の中で、彼が最低限の生活マナーすら身に付けていないことは、確かだ。
創価の親友についても然り。
モラルある人間で友人を想うなら、そんな愚行は止めさせているはずだ。
人迷惑を顧みず、強引な勧誘や法律に触れる選挙運動を繰り返す学会員に、社会的モラルを求める方が無駄か、とも思うが。

「仏の顔も三度まで」とはよく言ったもの。
彼との付き合いは、当然考え直すべきだろうな・・・。
   
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2009年05月07日

闘わない日々

今年のGWは、ほぼ毎日、彼と顔を合わせた。

特別どこかに出かけたワケではなく、映画を見て、ごはんを食べて、彼の部屋を掃除して、昼寝をして、一緒にワンコの散歩に行って。
慌しい用事の合間に、他愛ない、穏やかな休日を過ごした。
創価の話を一度もしなかったが、連休中に活動している様子はなかった。
私が気付かなかっただけかもしれないが・・・。

5月3日の朝、実家で朝日新聞を捲っていると、スポーツ面に掲載された創価学会の広告が目に入った。
記念日に合わせて、大々的な広告を出稿した様だ。
インド創価学会の子どもたちの写真の上に、
『笑顔の向こうに、新しい明日が見えます』 とある。

india_soka.jpg

インドの子どもたちは、この広告に写っている様な恵まれた環境の子どもたちばかりではない。
かつて、バックパックひとつで1ヶ月程インドを旅行した事があるが、インドの現実はその様なものではなかった。
分かった事を言うつもりはないが、生と死の混沌の中で、子どもも大人も、必死に命を繋いでいた。

渋滞の中で、私の乗った車の側からいつまでたっても離れない女児がいた。窓から小さなお菓子をひとつだけあげると、弟の手をひいて、あっさりとどこかに去っていった。

乞われてお金を渡す事は容易い。
だが、目の当たりにした現実は、豊かな国に育った私には重かった。
どこに行っても、客引きや物乞いが群がってくる。
あまりのしつこさに、嫌気がさして、そのうち近寄って来る人に険しい顔を向ける様になっていた。

そんな時、出会ったある日本人に、こんな事を言われた。
「挨拶してくれてるんだから、挨拶くらい返した方がいいですよ」
そのたった一言が、私にはズシンときた。
自分の行為が、一気に恥ずかしくなった。
私は、何の為にこの国を旅しているのか、その意味を見失っていた。

無意識のうちに、自分より貧しいと思える人たちを見下していたのだと思う。
そんな驕った目で、何を見て、何を理解することが出来ただろうか。
今でも、名前すら知らないその人の一言が忘れられない。

話を新聞広告に戻そう。
世界に認められ、192ヶ国で活躍するはずの創価学会が、日本一国のメディアを籠絡する為に、莫大な資金を注ぎ込む。
一方で、貧しさに喘ぐ子どもたちに分け与えるという選択肢もあるのに。
会員の貴重な寄付金が、世界平和の為ではなく、組織を守る為に浪費されているのが現実だ。

インドでは、ヒンドゥー教徒が8割を占める。
創価が賞賛するガンジーも、ヒンドゥー教徒であったはずだ。
仏教発祥の地とは言え、インドにおける仏教徒の数は僅か1%程度。キリスト教徒よりも少ない。聖なる川ガンガーを埋め尽くし沐浴する人々の数は、この先何十年経とうとも、創価の及ぶところではない。
これもまた、インドの現実だろうと思う。

今日、久々に『SEIKYOnet』を見ると、「5.3」だの「5.5」だの、創価は相変わらず「大闘争」三昧の日々だ。
「仏法は勝負だ」「師の為の勝利こそ正義だ」
そんな言葉は、今日の命を繋ぐのに必死な子どもたちの前では、ただの荒唐無稽なセリフでしかない。
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2009年04月30日

感受性を豊かに

今日の日本列島、全域で晴れマーク一色となった。
今朝の天気予報で、「1年に1度あるかないか」と言っていたのだが。
真夏には連日の出来事の様な気がするが、注意して見た事もなかったな・・・。

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昨日、彼に会った。
ゆっくりと顔を会わせるのは、いつ以来だったろうか。

夜勤明けの彼を叩き起こして、隣県の美術館へ連れて行ってもらった。

いつの頃からか、美術館に行くことが好きになった。
パリのルーヴルや、フィレンツェのウフィツィなど、訪れた美術館は結構ある。宗教画の鑑賞は、私にとって物語を読むような感覚だ。

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これは、ボッティチェッリの『聖母子と天使』。
繊細なヴェールに包まれた聖母マリアの横顔は、優しく美しい。

彼は、何を感じてくれただろうか。

そう言えば、彼を連れてあちこち出かけている。

『山下清』展に行ったこともあった。
花火の貼り絵が大好きで、この日も夜勤明けの彼を引っ張って行った。

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劇団四季のミュージカル『オペラ座の怪人』も、一緒に観た。
怪人の歪んだ愛憎と、その怪人を「音楽の天使」と歌うクリスティーヌ。
クリスティーヌの純粋な愛は、最期、怪人の心に触れる。

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映画、美術、舞台芸術、音楽などを通じて、いつも感性豊かな人間でありたいと思う。
彼が望むかぎり、彼にも、私の手で新しいことに触れる機会を与えてあげたい。
豊かな心は視野を広げ、いつか、閉ざされた世界から一歩踏み出すきっかけになるかもしれないから。
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2009年04月27日

「師弟不二」の真意

創価学会の会則 三代会長の項に、こうある。

 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の
 「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、
 この会の永遠の指導者である。


2002年の会則変更に伴い新たに制定されたものである。
『黒い手帖』で、矢野氏はこう危惧している。

(引用)----->
すべての会員は池田氏が生存している限り、生涯、池田氏の弟子で、師匠である池田氏の言葉には絶対服従となってしまう。
この危険性を原島元教学部長がかつて指摘していた。
「日蓮の信仰が純粋であるほど、いつの間にか「池田は正しい」ということになってしまう。
そうなると池田さんの正しさが証明されなければいかん。そのために選挙で勝たねばならん。
池田さんが「国法より仏法が上」といえば、社会的不正を犯してもかまわんとなるから、罪の意識さえなく、犯罪集団化してしまう。」

<-----------

この危惧は、既に現実のものとなっている。
2008年最高裁で有罪判決を受けた「違法ビラ配布事件」、その他、数々の盗聴事件、脱会者や創価批判者へのストーカー行為、選挙法違反など、「国法」より「創価・池田教」を重んじるが故の個人的、組織的犯罪が後を絶たない。

そして、何より恐ろしいのは、多くの学会員が、こうした数々の重大事件に自分達の仲間・組織が関わっているという事実を知らずに過ごしている事だと思う。

学会の極端な教えによって破綻した思考・精神が、結果的に重大犯罪に結びついている。
その事に気付くことなく、学会員は抜け出すことの出来ない深い深い闇を自らの手で手繰りよせているのだ。

創価学会には、「師弟不ニ」という言葉が溢れている。
「師の仇は弟子が討つ。これが、創価の正義の血脈である。」
「師匠の仇を討つ。これこそが本当に偉大な人間の証である。」
「師弟は仏法の根幹であり、根本の学会精神である。」
「師弟不二で勝ちまくろう!」

どうか、もう一度、心をゼロにして考えてほしい。

「師」の為に全てを捧げることが、仏法であり、正義であるのか。
釈尊は、師の仇討や、俗世の勝負を説いただろうか。
命をかけて守るべきは「師」と説いただろうか。
釈迦の悟りは、勝にも負にも偏らない中道ではなかったか。
師弟不二という言葉の裏に自己保身を求める「師」が、あなたの手を握りしめて離さない家族や恋人、友人に勝るだろうか。

手をのばせばそこにある小さな平和こそ、見失ってはいけないと思う。
自己主張しない素朴な愛は、飾りたてた美辞麗句に目を奪われて見失いやすい。

今、こうして書いていて気が付いた。
彼の愛し方も、とても、素朴だった。
何を求めることもしなかった。多くを求めていたのは、私の方だ。


いつも拝読しているブログに、「師弟不二」についての記事があった。

『池田氏が強調する「師弟不二」という言葉が御書にはまったく書かれていない』そうだ。

-*-*-*-(参考:「斜め目線の創価学会」)-*-*-*-

上記ブログは、とても興味深い記事なので是非ご一読頂きたい。

私も、機会を見つけて、学会員の方に「御書に書かれていない師弟不二」についての意見を伺ってみようと思う。
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2009年04月24日

もはや「カルト池田教」

引き続き、『黒い手帖』を引用しつつ、創価学会のカルト性について考えてみたい。

初めて創価学会の会合(同時中継)を見たとき、予想以上のショックを受けた。
以前、「2月の同時中継」、「彼の弁論?」などで、その印象や批判を述べているが、その中で「カルト」という表現は使わなかった。
その定義を十分に理解していなかった事もあるし、信仰の自由を否定できないという思いもあった。
私の目に、創価学会がいかに異常に映ろうとも、それを素晴らしいと感じる人もいるだろう。
蓼食う虫も好き好き、である。

しかし、創価学会が、反社会的、非人道的な要素を持つ危険性の高い組織であると確信した今、私の中で創価学会は、もはや明確な「カルト教団・カルト池田教」である。

『黒い手帖』で矢野氏はこう述べている。
----->
私の手帖はまさに爆弾だった。
学会、公明党の暗部に触れる内容も少なくない。
振り返れば、私が現役時代、実に多くの事件が起きた。
それ自体、学会という宗教団体の異常体質を示すものではないかと思う。

<-----

矢野氏が関わった事件とは、言論出版妨害事件、学会と共産党との協定、池田氏の女性問題を記事にした「月刊ペン」との裁判、大石寺との
二度にわたる紛争、ルノアール絵画疑惑、捨て金庫事件、国税庁による学会への税務調査、などである。
残念ながら、『黒い手帖』の中でその仔細は述べられていない。
いずれ、全てを白日の下に晒す日が来るという矢野氏の言葉に、期待したい。

会合(同時中継)で、私は、学会の「個人」に対する執拗なまでの攻撃、悪口雑言の数々、池田氏に対する異常なまでの服従と妄信ぶりを目の当たりにした。
しかし、私が予想以上にショックを受けたのは、彼が、この会合を「素晴らしい」と賞賛し、罵詈雑言の溢れるスピーチに躊躇うことなく拍手を送る姿を、この目で見てしまったから、なのかもしれない。
彼と距離を置いている今も、彼のこの行動がマインド・コントロールによるものであり、彼本来の姿ではないのだと、信じたい気持ちは消えてはいない。

『黒い手帖』からも、会合の異常性が、いかに危険性を孕んでいるかが
分かる。
(以下引用・一部要約)----->
学会会合においても、誹謗中傷は日常茶飯事で、名は全て呼び捨て。
罵詈雑言のオンパレード。
竹入義勝元公明党委員長、山崎正友元創価学会顧問弁護士、阿部日顕日蓮正宗前管長、藤原行正下公明党都議への凄まじいバッシング。
およそ宗教団体、宗教人の言葉とは思えない汚い口調の誹謗。
会合の会場入り口には、それらの人の名を書いた色紙様の紙を置き、会員たちにあたかも踏み絵の様に土足で踏み躙らせた。
こうすることによって、会員の憎悪新を掻き立てただけでなく、躊躇する者は異心ありとして学会への忠誠心を確かめた。
また、仏壇に彼らの名を記した色紙様の紙を置き、呪い殺さんかのように会員に指導した。
学会や公明党の中枢にいた人間が離反した際に、連鎖、連動による他の会員の学会離れを防ぐために熾烈な見せしめが必要であり、学会首脳は、見せしめ効果を高めるためには「容赦のない徹底した攻撃」が有効だと考えている。

<-----
更に、----->
あたかも敵を呪い殺そうとでもしているような指導は一刻も早くやめるべきではないか。
人の幸せを祈るならまだしも、宗教人ともあろうものがそのようなことを行っているとは信じがたい。
こうしたマインド・コントロールが、カルトの特色だと指摘する専門家もいる。 昨今の学会の暴走ぶりを見ていると、狂信集団に変異しつつあると見る人が出てもおかしくない。

<-----

こうした極端な思想が、ごく普通の人の心を支配していくキッカケは、人の心の弱さに因るものなのか。
それとも、社会の歪みに因るものなのだろうか。

例え小さな挫折でも、心に痛みを抱えるのは辛い。
おそらく、学会員の誰もが、そういう痛みを知っている。
その経験は、やがてその人の中で「優しさ」や「強さ」、「思い遣り」へと成長するはずだった。
そして、同じ痛みに苦しむ人を救えるはずだった。

しかし・・・、
学会で日常的に繰り返される荒んだ言葉を、心苦しく思う人は、もはやいないのだろうか。
人を許し、人に許されて誰もが生きている。その事に気付く人は、もはやいないのだろうか。
妄信の果てに頑なに閉ざされた心を哀れと思える人は、どこにもいないのだろうか。

学会信者の心から優しさを奪い、破壊しながら、学会の導く道は、何処へ向かっているのだろうか。

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posted by ミル1000 at 15:45| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月14日

祥月命日に寄せて

4月14日、大切な人の祥月命日。あの日から3年になる。

毎年、お寺に命日のお供養をお願いする。
お経をあげてもらい、御札と御守をいただく。
御札は、一昨年亡くなったワンコの写真と並べてテレビの上に置き、
肌身御守は、通勤定期用の小物入れに入れる。
御札には時々手を合わせるくらいで、毎日お勤めをする様な事はない。

このお寺は、菩提寺でもないし、過去には縁もゆかりもなかった。
3年前、このお寺を訪れたのは、偶然に近い。

enmanji

 一年中いつでも本堂をお参りできること、
 電車で行きやすいこと、
 本堂の空気が気に入ったこと、
 小さなお寺で訪れる人が多くないこと、

そんな単純な理由で、最初の1年は毎月お寺を訪れ、手を合わせた。

お寺の法話は、自然と心に馴染む。

 旅先でお地蔵様を見かけたら、そっと手を合わせましょう。

そんな、優しいことばが、とても好ましい。

あの人は、あなたに、温もりと、感謝の気持ちと、哀しみを乗り越える勇気を遺してくれました。

誰もが生かされています。
先祖、祖父母、親、子供に、友人や恋人にも、多くの人に許され、
生かされています。
だから、感謝の気持ちを忘れてはいけません。

お釈迦様の心とは、全てを許す慈悲の心なのです。
posted by ミル1000 at 11:21| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月13日

分かち合えるもの

しばらく彼と会っていない。
私の中で、「愛すべき彼の人間性」と
「私の正義にそぐわない学会の正義」が、消化不良をおこしている。

彼が、私を喜ばそうと、桜の写真を送ってきてくれた。
一番立派な木を探し、綺麗に写そうと四苦八苦したらしい。
その姿が容易に想像できて、複雑な思いが胸に広がった。

daihatsu


分かち合えるものは、確かにある。

でも、今の私は、彼から距離を置くことで、何とか彼を見失わない様に
する事が精一杯になってしまった。
posted by ミル1000 at 19:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月08日

信じたいから、ただ信じようとする

今更だが、創価学会を通して彼に接すると、どうしても擦れ違ってしまう。

学会活動のせいで約束の時間に遅れ、時間になっても連絡すらよこさなかった彼に、またもや怒りが爆発した。
精神的に崖っぷちを歩いているから、感情を抑える事ができない。
今の私は、「学会員」と接するには、不適当な人間この上ない。

以前、本部長さんを交えた話し合いで、彼は「学会の裁判敗訴の事実」
など、多少なりとも学会の嘘をを知る事となった。
だが、その後も変わりなく学会活動を続けている。
創価学会に対する依存度(忠誠心?)は、ほとんど変化していない様だ。

怒りにまかせて、彼に言った。

『創価学会が何百万人もの人を騙してる嘘も、一般人を巻き込んでいる
 犯罪も、目を逸らして、何も考えなければ楽でしょう?

 自分が活動をする意味も「分からない」って言葉で逃げてしまえば、
 悩まなくていいから、すごく楽でしょう?

 でも、そうやって逃げているうちに、自分自身の心も、大切な人も、
 見失ってしまうよ。

 もう既に、善の心を見失ってる。

 事実を知った上で、嘘に加担して、犯罪を容認して、過ちを正す
 どころか、平気で見過ごして、そこに罪の意識を感じてないんだから。
 無知の罪よりずっと重い罪だと思う。』


正義感を振りかざすつもりはないが、分かってもらえない歯がゆさで
彼を追い詰める言葉しか出てこない。
そして、私の言葉が、彼の心を、返って頑なに閉ざしてしまっている。

ふと、数年前の自分を思い出した。
その頃付き合っていた彼は、親にも友達にも受け入れてもらえない人
だった。
反対される理由を、理性の部分で私はよく理解していた。
傍から見て、私は決して幸せには映らなかっただろう。
私自身、辛い思いを繰り返し、泣きながら眠りについた夜も数知れない。
そんな人と訣別するのに、4年の歳月を要した。
信じたいから、ただ信じようとする、強烈な観念に捉われていた様に思う。
何故なのか、と問われても、分からない。

彼の創価学会に対する思いも、根本は同じなのではないだろうか。
人は、そう簡単に未練を断ち切れない。
弱い心は、自分の信じてきたものを否定できない。
だから、信じているものを批判されると、無意識のうちに庇ってしまう。

私が彼の元を去っても、彼が追いかけてくる事はないだろう。
そして、彼は、学会と共にそれなりに幸せな人生を送るのだろう、と思う。
とても素直で、人に愛されるものを持っているから。
posted by ミル1000 at 18:34| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月07日

「善」の哲学

ブログをお読み頂いている学会員の方から、「『善』とは何か?」
という質問が届いた。
コメント欄で回答するには、長文になり過ぎるし、折角なのでここに記載しようと思う。
私と学会員さんのこれまでのやり取りは、4月以降のコメントをご覧頂きたい。
今日の記事は、4/6のコメント「さくら by 学会員 (04/06)」への回答になる。
タイトルを「哲学」としたが、そんなご大層なものではない。

-------------------->
ご自分の固定観念に当てはめて考えるタイプなんですね。
「哲学」だったり「思想」だったり「宗教」だったり。
ご専門は理系ですか?
でも、学会員の方は「哲学」という言葉がお好きですね。
彼も使っていました。
まぁ、彼の場合、あなたの様に確固たる考えを述べる事はできないんですけどね。
私が言うのもナンですけど、彼は考察が浅いから。。。

私の専門は英語なんですけど、若い頃に海外をフラフラしていたせいで、考え方が一所に定着しなのかな。
自分と全く違うものを咀嚼する力は、私の長所だと思うんですけど。

インドの混沌の中に「生と死」の共存を感じて、
タイの山奥の小さな村で生きる人々の世界の大きさを考えて、
イタリアの美術館で、宗教画の荘厳に触れて、
オセアニアの大自然に心癒されて、
ニューオーリンズでは、その文化を肌で感じてゾクゾクしてました。

私の考えは、「哲学」みたいな確立されたものではないです。
言葉を当てはめれば「価値観」なんですけど、私の価値観は、色んな出会いを通じて、影響を受けて変化しているので、何かの枠に当てはめる事はできないんじゃないかな。
私は、変わっていく事を重要だと思うけど、「価値観」の核の部分は、基本的には変わらない。
それは、その核が私の「善」に基づくものだから、なんです。

では、「善」とは何か。
おっしゃる通り、とても難しい質問です。
心で判断する要素も大きいから、なかなか文章にはしづらいですが、
例えば・・・、

嘘をつかない、人を裏切らない、騙さない、過ちから目を逸らさない、
驕らない、生命を尊ぶ、平和を尊ぶ、そして、「無償の愛」を忘れない


数え上げればキリがないですね。
全て『心の真理』に背かない行動をすることです。
当たり前のことだけど、未熟さ故に忘れてしまいがちなこと。
人として大切なものなのに、一度見失うと、なかなか探し出せない。
手放した事に気付かないから、もう一度手にする事が難しい。


こんな答えでいいでしょうか。
以前のコメントに「宗教的思想、哲学の観点からの善悪・幸不幸の判断は、第3者に及ぶものではない」と書きましたが、今回も同様です。

難しいテーマですが、考察を深める良い機会になりました。感謝です。
彼にも、伝えようと思います。
posted by ミル1000 at 13:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月05日

さくら

sakura2.jpg

とてもあたたかい一日だった。
彼と、桜を見に行ってきた。
彼も私も、桜が大好きで、随分前からお花見を楽しみにしていた。

手をつないで、ゆっくりと公園の中を散歩する。
立ち止まって、満開の枝、まだ蕾の残る枝を仰ぎ見る。
時折、顔を見合わせて笑顔を交わす。

昨晩、学会活動を続ける彼を問い詰め、越えられない壁の前でもがいていた私の心が、彼の心と通い合う充足感で満たされていく。

彼と手をつないで散歩するのは何度目だろうか。
彼と出会って、何気ない休日の一時が、ただ幸せで、それで十分だと
思える様になった。

私の中で、答えは出ている。
その答えに自分の心が追いつかない。
悩みながら辿り着く場所は、まだ見えない。

posted by ミル1000 at 20:12| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2009年04月03日

矢野絢也氏 逆転勝訴

昨年5月に創価学会を脱会した、矢野公明党元委員長の逆転勝訴は、創価学会にとって、そして社会にとっても大きな意味を持つ判決だった。
より多くの人に、この事件に、学会問題に関心を持ってほしいと思います。

週刊現代が逆転勝訴 公明党幹部の「メモ」持ち去り報道(朝日新聞)

公明党幹部だった元参院議員ら3人が、矢野絢也・元同党委員長の自宅から手帳を持ち去ったとの「週刊現代」の記事で名誉を傷つけられたとして、損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決が27日、東京高裁であった。

南敏文裁判長は3人が矢野氏を脅迫して手帳などを提出させた上、自宅に上がり込んでほかの資料も捜したと認定。
発行元の講談社などに計660万円の支払いを命じた一審・東京地裁判決を取り消し、3人の請求を棄却した。3人は即日上告した。

また判決は、反訴した矢野氏側の請求を認め、持ち去った手帳などを矢野氏に引き渡し、プライバシー侵害の慰謝料として計300万円を支払うよう3人に命じた。

訴えていた元幹部は、元参院議員の黒柳明氏と大川清幸氏、元衆院議員の伏木和雄氏の3人。
創価学会や同党に関する矢野氏の「極秘メモ」を持ち去ったとの同誌報道について「手帳を強奪した事実はない」と主張していた。

判決は、3人が05年5月、4回にわたり矢野氏の自宅を訪れ、要求を拒めば創価学会や公明党員が危害を加える恐れがあると脅迫していたと指摘。
矢野氏はやむなく手帳などを引き渡したが、3人はさらに矢野氏宅の本棚や引き出しなどを開けたと認めた。

3人は代理人弁護士を通じて「全く真実を無視した信じられない不当な判決。勝訴まで断固戦う」とのコメントを出した。

講談社は「記事の正当性を認めた極めて妥当な判決だ」とのコメントを出した。

矢野絢也氏:「手帳持ち去り」で逆転勝訴…東京高裁判決(毎日新聞)

矢野氏側が逆転勝訴、「手帳持ち去り」認める…東京高裁(読売新聞)

28日の聖教新聞にも、小記事ながら「不当判決」として掲載されている。


矢野氏は、2008年5月、名誉毀損で創価学会を提訴している。

2008-6 特集/矢野絢也元公明党委員長が造反(FORUM21)

矢野絢也 元公明党委員長が創価学会を提訴(YouTube)
posted by ミル1000 at 12:34| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月27日

愛は学会に勝つ?

今朝、喉があまりにも痛いので耳鼻科に行ってきた。
ネットで一番近くの病院を調べて行ってみると、とある雑居ビルの中、
重い扉を開けると、花粉症の時期だと言うのに、閑古鳥が鳴いていた・・・。
まぁいっか。

風邪から来る扁桃腺の炎症との事。
体調がすぐれないと、気分も低下してしまう。
考えもうまくまとまらず、彼の事も、学会の事も、もう投げ出してしまいたい。

ブログ巡りをしていて、キヨさんの言葉に、涙が滲んできた。

------------------->
創価学会の恋人がいて悩んでいる方々、
最初は本当に小さな目標でいいと思います。
宗教という大きな壁を破ろうとしている今、
全てが未知の世界で相手の世界がまるでわからない・・・
全てのことが大きなの目標なのかもしれない、
でも、それでも乗り越えたいと思う強い想いがあるのならば、
相手の心を動かせないことはないと思います。

何をやっても上手くいかない、わかってくれない、わからない、
そんな風に悩んでいたとしたら、足下の小さな階段を見失っている
のかもしれません。
本当に低い階段でも、上へと繋がっている階段。
もしそれを見つけ登る事が出来たら、あなたは決してゼロではなく、
プラスになっているのです。
(ブログ「創価学会の私と無宗教の彼」より)
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posted by ミル1000 at 16:59| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月26日

私の全身が学会を否定する

昨日の晩、やってしまった。
彼に、ブチ切れてしまった。

今週末、本部長サンに会う段取りをつけてもらっていた。
メールで夜中0時前にやり取りをしていたが、メールが面倒になったらしく電話がかかってきた。

本部長サンは、「21時に会いましょう」とのこと。
私は、せっかく時間を割くのであれば、ゆっくりと話をしたいので、
「初対面の女性に会う時間でもない気がするけど・・・。
 無理に時間作ってもらわなくてもいいので、お忙しいならまたの機会で
 いいよ。」と彼に返してみた。

ふと、彼に伝言役をさせるのも申し訳ないと思い、
「自分で本部長サンに伝えようか?」と聞いてみる。

すると、「じゃあ、電話かわろうか?」と言う。

え!?そこにいるんかい!?この夜中に!?
何の為に!?何してるの!?


学会員が時間に無頓着な傾向があるのは、ご近所さんの座談会や
ブログなどを見聞きして知っていた。

この人達も例外じゃない。
じわじわと怒りがこみ上げてきた。

彼は、仕事柄、朝が早い。
それを知って、本部長という立場の人が、夜中に会員宅を訪問する。
創価学会という組織は、それが許される。彼自身が受け入れている。

彼はひとり暮らしだから、誰も文句は言わない。
こうして、離れて暮らす彼女の逆鱗に触れるくらいだ。

だが、学会員と結婚したパートナーは、こうした日常の非常識に苦しむ。
学会の常識が、共に暮らす、愛する人を追い詰めているのだ。

湧き上がってくるのは、言い様のない、強烈な拒絶感だった。
私の、全身が、創価学会を拒否し、否定していた。

キツイ言葉で彼に問い質した。
こんな時間に何をしなくてはいけないのか、と。

私は、いつも厳しい言葉で彼のダメなところを指摘してきた。
事実、彼は、生活習慣も、生計も、健康管理も、何を取っても一人前に
できていなかった。
男として、「頼りない」としか言えない。

それでも、部長さん達は、「頑張ってるよ」、「変わってきているよ」
と彼を煽てる。
だから、尚更、私の言葉は刺々しくなってしまったのかもしれない。

彼は、「言葉の暴力」だと言った。
そうなのだろうか・・・。
彼がそう感じるのだから、間違いなくそうなのだろう。

批判を受けることで強まる仲間意識、無責任な共依存、閉ざされた世界での安息、「学会が正しい」というたった一つの強固な思考、

これが彼の選択なのだ。
彼が自分の為に選んだ宗教なのだ。

もう無理かもしれない。やっぱり無理かもしれない。
彼に偉そうな事を言いながら、一向に大人になれない自分を自覚して
いる。 情けないと思う。

でも、それでも、私の身体の全てが、創価学会と、彼を、否定する。
posted by ミル1000 at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年03月25日

本当の事を知りたい

彼は、相変わらず、学会の事を知ろうとしない。
勉強する方法が分からないのか、面倒くさいのか、知りたくないのか・・・。
以前、「部長に聞いてみる」と約束した件も、催促してみるものの、一向にその気配がない。

一昨日、彼のスローペースに釘を刺す為に、メールを送った。

 何度も言ってるけど、やる気がないなら、はっきりそう言ってよ。
 私は、学会の事で聞きたい事が山ほどあるけど、【まる】が避けて
 通るなら、そう言ってもらわないと困る。

 私の事、都合良く、適当にあしらってない?

 【まる】は、「楽観主義」と「楽して嫌な事から目を逸らす」ことを
 取り違えてると思うわ。
 私の人生に関わる事を、いい加減な楽観主義で片付けてしまわ
 ないで。

 考える気がないのにで、その気があるような事言うのは、卑怯やで。


当日、彼から返事はなかった。
翌日、ショックでパニックになって返事もできんかった、とメールがきた。

「都合よく、適当にあしらってるつもりなんてない。」と、一応抗議してくる。
「じゃあ、他の部分は図星なの?それでそんなに凹んでるの?」
ときり返すと、黙り込んだ。

そして、また私の説教が始まる・・・。
しかしよく聞いてみると、本部長サンに聞いてみたい事はあるらしい。

学会では、数々の裁判について、「学会は全てに勝利し続けている」と
公言している。
彼も、もちろん、それを信じていた。
周知の通り、事実は「敗訴」した件数の方が多い。
こんな簡単な事実が、学会内では何故180度転換して、まかり通ってしまうのか、摩訶不思議な現象である。

以前、彼に、裁判所HPから、敗訴の判決文をプリントして渡してみた。

彼は、どうやら「裁判に負けている」ことを多少なりとも気にしていたらしく、「本当の事、事実関係を本部長に聞いてみたい」と口にした。

少し、驚いた。
彼の心にも、僅かな「疑問」が生じていたのだ。
もちろん、本部長サンは、彼を丸め込もう、いや、それらしい弁論をする
だろう。
が、別に構わない。判断するのは、彼自身だ。

彼は、私と学会の話をした後、いつも疲れ切って、一杯一杯になっている様子がよく分かる。
信じているものを否定される事への抵抗と防御心がフル稼働しているのだろう、と、私は勝手に分析しているが、彼には
「【まる】の脳みそは、鳩ぽっぽ並やからね。」と言っておく。

信じているもの(=自分の正義)を否定されるという事に、心が反発するのは当然だ。
疑問が芽生えれば、不安にもなるし、疲労もするだろう。
でも、逃げてしまったら、そこで終わりだ。
「事実」はひとつしかない。
「真実」は、簡単には見つからない。
posted by ミル1000 at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記