2009年08月03日

創価とSGIの不協和

私は、SGIに関する知識をあまり持っていない。
創価学会の会合や学会員の口から「世界192カ国に広がっている」というフレーズは何度か耳にした。
Sokanet SGIの概要 にも「世界192カ国・地域に1200万人以上のメンバーを擁する」と同様のことが書かれている。

しかし、SGIのオフィシャルサイトには、ざっと見たところ192カ国という記載は見当たらない。1200万人という数は明記されている。

そこでSGIに対して、「192カ国の国名や、それぞれの国の組織の規模などの基本情報を教えてほしい」とメールを送った。
同じ質問を学会員の方にも聞いているが、回答保留の状態である。
何らかの回答が得られたら、この場でお知らせしたい。

SGIは、SGI憲章というものを掲げている。
今回は、【目的と原則】から以下の2点を取り上げてみる。

・SGIは「信教の自由」を尊重し、これを守り抜く。
・SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。


他宗教の尊重・協調が明言されている。

一方、Sokanet 新会員のために には、次の様な記載がある。

『相手が他宗教を信じ、間違った宗教観をもっているのであれば、真実の仏法の考え方を、道理を尽くして語り、正していくことが大切です。』

この「他宗教=間違った宗教」としている創価HPの記載は、SGIの方針と正反対のものとなっている。
なぜこのようなギャップが生じているのだろうか?

創価のAさんは、創価HPの記載も「信教の自由を前提としている」と言う。しかし、この文面から他宗教を肯定する意味合いは読み取れない。
それに、脱会者やその協力者を魔と見なすあたり(←詳しくは「愛が魔に変わるとき」を参照)、とても信教の自由を尊重しているとは言えない。

更に、創価とSGIのギャップの原因について、Aさんはこう述べておられる。

「日本を特別視していることに原因があるのだと思います。「他のどの国、地域よりも救いがたい人々の国だ(趣意)」と日蓮が断じてます。」

つまり、日本という国は世界の中でも救い難い人間の集まりだから、愚かな人間達が信じる日本の宗教は全て邪教だと、こういう事であろうか?

ブログ『妻はアンチ、夫はバリバリ』によると、聖教新聞において、日本は「精神後進国」などと書かれているらしい。
創価は祖国を否定する言動が多いが、創価学会員の方々、あなた方は一体どこの国の人間なのだろうか?
日本の素晴らしさが理解できないのなら、一度世界に出て、日本人、日本文化の賞賛を確かめてきてはいかがだろうか?

創価学会には、こうしたSGI方針との不一致に限らず、教義や思想の矛盾が多い。
その時々で都合の良いことばかり書いているから、矛盾が更なる矛盾を呼ぶ。それは、いずれ致命的なものとなって、創価学会自身に降りかかってくるのではないだろうか。


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posted by ミル1000 at 17:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

愛が魔に変わるとき

学会員のAさん(某地区男子部本部長)にこんな質問をしてみた。

Q:創価を批判する私は、仏敵であり魔であるのでしょうか?私に幸せはあり得ない?私にはいずれ仏罰があり、地獄に堕ちるのでしょうか?

A:批判はかえってエネルギーになります。正直本当に怖いのは、ミルさんが偽装入会して役職を上げ、ここぞという時に組織破壊(大量の脱会者を出す)することです。そのレベルでようやく仏敵でしょう。
○○さん(←創価の彼)が退会に至れば魔になるでしょう。
なので、今現在であれば、逆に自ミルさん自身に功徳の出ることをされているのかもと思います。



私は何事も面と向かって正攻法で行くタイプなので、偽装入会など性に合わない。可笑しなことを想像されたものだ。
それから功徳はご勘弁願いたい。自分の行為に功徳を求めるなどという愚かしい考えは私にはない。

しかし、批判者に対して仏罰だの堕地獄だのという言葉はよく見聞きするが、「批判=功徳」という考え方は正直面白いと思った。
考えてみれば、ひとりの小さな批判であっても、それが数多く集まれば組織に大きな影響を与える可能性がある。
それが創価の衰退、もしくは更正につながる事になれば、批判の全てが創価学会に功徳を施したと言えるだろう。

さて、前置きはここまで。
今日書きたいテーマは「魔」について。

○○さん(←創価の彼)が退会に至れば魔になるでしょう。

この一文を見て、心の中にヒヤッと冷たい風が吹いた。

宗教の自由を尊重するなら(この点については次回の記事で詳しく触れる)、もちろん脱会も自由なはず。そう言いつつ、脱会を促した人間を「魔」と見なすのはおかしくないか?

Sokanet 新会員のために 〜障魔に打ち勝つ信心〜 の中にこうある。

煩悩や、夫や妻、子、父母、あるいは病気や死といっても、それら自体が初めから障魔であるというのではなく、これらに引きずられる修行者の弱い生命にとって「三障四魔」としてあらわれる、ということです。
信心を妨げようとする障りや魔を打ち破るものは、どこまでも、何事にも揺り動かされない強い信心そのものなのです。

(以上、引用)

家族や恋人を「障り、魔」などと言うこと自体、人の道に外れている。

マインドコントロールされた一人の人間を脱会に導く為に、どれだけの忍耐と、先の見えない時間、挫折に耐える精神的強さ、自分を支える知識、そして深い愛情が必要か、考えたことがあるだろうか。

自己満足の為に出来る事ではない。その行為に見出すべきものは、見返りを求めない、ただ一途な想い、愛情の深さではないのか。

もし、今、親や子、友人、恋人に脱会を促され迷っている方がいたら、どうか愛する人、愛される人の純粋な心を「魔」に摩り替えてしまう様な事だけはしないでほしい。
「結局、自分のことしか見えていなかった」と後悔する日がくる。

どんなに価値観や思想が違っても、人には超えてはいけない(超えられない)一線があると思う。
その聖域すら土足で踏み荒らす様な創価学会のやり方に、私は嫌悪感と怒りを抱かずにはいられない。

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posted by ミル1000 at 00:43| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2009年08月02日

読者様に半年間のお礼を

ブログを始めて早半年になります。
この半年間、私のブログをお読みくださり、メッセージを寄せてくださった方々に心からの感謝とお礼を申し上げます。

ブログというものは、対面でないだけに、アクセス数の増加やメッセージを頂くということが素直に嬉しく、楽しみでもあり、また記事UPの励みにもなりました。
皆様に支えられて半年間続けてこられたことに、本当に感謝しています。
ありがとうございます。

この半年間、自身の勉強から、読者様のメッセージから、創価学会そのものから、実に多くの事を学びました。

当初は、創価の彼との関係を綴っていくつもりでしたが、現在は、ひとりでも多くの方に「創価学会問題」を知って頂きたいという思い、目的を持っています。

学会が社会に与える影響の大きさを見れば、創価学会と直接関係のない方々にとっても、学会問題は決して無関係な事ではないという強い思いがあります。

今後も、批判に終始するのではなく、出来る限り自分の実体験を通して、事実に即した記事を書いていこうと思っています。
(とは言っても、既にメチャメチャ批判的な文章ですが・・・。)

いつの日か、読者の皆様にお会いして、美味しいお酒を片手に、笑顔で語り合える日を夢見ています。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

ミル

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posted by ミル1000 at 12:40| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

折伏教典 vol.1

今、手元に『折伏教典』がある。
知り合いの学会員Aさんに貸して頂いた。

Aさん曰く、
「最近は「しゃの字」も聞かない古文書状態です。折伏経典を引き合いに出す人は、自分の周りの学会員では皆無です。」
との事。

「池田氏が公式に訂正したという記録もないですし、内容は今も踏襲されていると思っていいんですよね?」という問いかけ部分には回答がなかったが、肯定と捉えた上で同書を読み、特に強く嫌悪感を抱く部分、問題性が高いと思われる部分を、この場で紹介していこうと思う。

創価学会は、都合の悪いことは「言わざる聞かざる」の傾向が強い。
今となっては時代遅れも甚だしい、何より人道に外れたこの書物に、池田大作自身が一番触れてはほしくはないだろう。
出版廃止となった理由は、一般人も然ることながら、もっと重要なのは学会員自身の記憶から消し去り、その目に触れさせない為だったと考える。

折伏教典(昭和39年改訂版)は、次の様な文章で始まる。

古今の歴史をひもどいてみるに、一冊の本が大きく時代に影響を与え、民衆の幸不幸を左右した礼は、しばしば認められるところである。しなしながら、経文や御書は別として、この折伏教典ほど、民衆の幸福生活確立に寄与しつづけている本は、まことに稀であるといわねばならない。
昭和26年10月13日に発行以来、つねに学会員の偉大な戦力として、民衆救済、仏国土建設への折伏大行進を推進してきた。

(以上、引用)

創価学会が、この書物に書かれてある思想を最前面に押し出して活動してきた事実は否定のし様がない。しかし今日、学会員に聞かせる表向きの言葉は、折伏教典の内容から180度転換したものが多い。
都合の良い言葉で本心をオブラートに包みながら、例え書物を消し去ろうとも、この教典に書かれてある思想は、今尚、創価学会の根底に確実に流れている。

人生にとって最高の善は、たとえいくら批判されようが、憎まれようが、折伏することであり、すなわち、聞法下種、発心下種をなしえることである。これが根底から人々を救い切る慈悲の行為であることを、強く確信していただきたい。
(P2より引用)

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2009年07月30日

創価学会の父と兄

韓国の学校の絵画コンクールに出展された子供たちの作品を見てほしい。

死した日本が弔われる絵、爆弾で攻撃される絵、破り燃やされる絵。

子供たちに、こんな恐ろしい絵を描かせる。これが、韓国の反日教育の産物だ。

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中国でも、韓国と同様の反日教育がなされている。

中国のある幼稚園に1年以上もカメラを据え付けて、園児を観察し続けた番組で、インタビュアーの、「日本人は嫌いなの?」「何故きらいなの?」といった質問に、園児は「嫌い」「日本人は中国人を殴るから」「日本人は中国人に悪いことをしたから」などと答えていた。「日本人を見たことはある?」「日本人に殴られた場面を見たことはある?」などの質問への答えは、いずれも「ない」だった。
萬晩報 「中国・幼稚園児の反日感情」より)


創価学会は、韓国を「兄」、そして中国を「父」と呼ぶ。
彼らが慕う父や兄が、これほどまでに日本を憎んでいる事を、どれほどの創価学会員が知っているのだろうか。

そして、創価学会は何故この両国を「父・兄」といった目上の存在として扱うのだろうか。

日本は古来、中国・韓国に対して対等な立場で接してきたのだ。
聖徳太子の、隋の煬帝への国書にも示されている通りだ。
「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙無きや」

自虐的な歴史観を好むのは創価に限ったことではないが、誤った歴史認識では日本人の誇りすら失うことになるという事を忘れないでほしい。

中国・韓国の反日感情は異常と言える。常軌を逸している。

親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法(韓国)
-本法律の目的は親日派と認定された人物、およびその子孫が所有する財産を没収することである。
(Wikipediaより引用)
AFCアジアカップ2004 中国の反日感情
日本サポーターへの罵声やごみの投げつけ、日の丸の旗に火をつけ、日本大使館の大使用公用車を襲撃
(Wikipediaより引用)

気に食わないものを、感情に任せて徹底的に(人道を外れてまでも)攻撃する彼らの言動は、創価学会に通じるものがある。

なるほど。こうして考えてみると、中国・韓国が創価の「父・兄」と言うのも頷ける。
ただ、間違っても「日本国」の「父」でもなければ「兄」でもないという点だけは、取り違えないでもらいたい。


【関連記事】
パチンコと民団と創価
日中国交正常化の立役者
創価学会は中国のコマ
ウイグル侵略と創価学会


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他人の不幸は蜜の味

表題、あまりいい言葉ではないのだが、こんな記事があった。

他人の不幸 科学的にも蜜の味だった
他人の成功や長所を妬んだり、他人の不幸を喜んだりする感情にかかわる脳内のメカニズムが、放射線医学総合研究所や東京医科歯科大、日本医科大、慶応大の共同研究でわかった。妬ましい人物に不幸が訪れると、報酬を受けたときの心地よさにかかわる脳の部位が働くという。13日付の米科学誌「サイエンス」に発表した。
(2009/2/13 産経新聞)

人間誰しも、多少の自覚はあると思う。もちろん、私も。
けれど、大抵の人間は、その蜜をそっと飲み込んで胸の中にしまう。
どんなに妬ましい人の不幸でも、それを喜ぶことには「罪悪感」が伴う。
普通の人ならば。

創価学会員が、脱会者や批判者の不幸を「仏罰」だと喜ぶのも、人間の本能だと言えなくもない。
問題なのは、それを大っぴらに喜び、声高に吹聴し、人の傷を更に踏みにじる様な言動が目立つことだ。

創価のやり方に対抗する様に、アンチ側にも、創価学会員の不幸を仏罰だとやり返す発言はよく見られる。
気持ちは本当によく分かる。そうだそうだ、と賛同したくなる。

だが、人の運命とは、他人には測り知れないものだと思う。

頭の冷静な部分で、学会員が騒ぎたてる仏罰がチャンチャラおかしいと思っているのと同じ様に、創価学会員の人生がどうあろうと、それもまた仏罰とは関係のないものだと分かっている。

若くして亡くなったのなら、それはその人の運命。病気になる事も、借金を抱えることも、夢破れることも、その真意は「神のみぞ知る」ところだろう。
蜜の味に酔って「不幸」と決め付けたがるのは、やはり愚行だと思う。

幸か不幸かは、いつの日か自分自身の中で答えが出るはずだ。

「バチ」というものは、他人に投げ付ける言葉ではなく、人が己の言動を戒める為に考え出したものなのではないだろうか。

−食べ物を粗末にするとバチがあたるよ−

例えばこんな言葉も、人間が世の摂理、あるいは宇宙の法則から見出した、自分自身への戒だったのではないかと思う。

【関連記事】
「現世利益」と「法罰論」

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2009年07月26日

池田大作マジック事件

クロさんのブログ(「真実と幻想と創価学会」)で驚くべき写真が紹介されていたので、当ブログでも拡散させて頂こうと思う。

magic1.jpg

↑↑ 何してるの、この人??


創価学会の会合(同時中継)で、何度か池田さんのスピーチを聞いているが、ご高齢のせいで何を喋っているのかとても聞き辛い。
そのせいかどうか知らないが、画面にご丁寧に字幕が出る。

池田サンが、「●●部、立って」と命令する。
すると、画面には「立ってください」と丁寧な言葉で字幕が出る。

念入りな対応、ご苦労なことです。

周りの学会員は誰ひとり「何でやねん!?」と突っ込んでくれない。
大阪人ともあろう者が、ここで突っ込まないでどうする!

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2009年07月22日

池田大作の名誉学術称号

先日、創価学会の会合(同時中継)を見に行った。
この会合で、池田サンの名誉博士号授与式があった。今回はブラジルのホンドニア連邦大学の名誉博士。これで、通算258個目らしい。

周知の通り、池田大作は様々な顕彰を授与されているが、こうもひっきりなしに、世界の至るところから顕彰をもらう人は、世界広しと言えど池田大作くらいではなかろうか?

SOKAnet にこうある。
池田名誉会長の世界的な教育・学術への貢献に対し、世界各地の大学から数多くの名誉博士・名誉教授などの名誉学位が贈られています。

しかし、日本の大学(創価大学を除いて)から授与された学術称号はゼロ。
それもそのはず。名誉教授の場合、日本では、学校教育法において以下の様に定められている。

第106条
大学は、当該大学に学長、副学長、学部長、教授、准教授又は講師として勤務した者であって、教育上又は研究上特に功績のあった者に対し、当該大学の定めるところにより、名誉教授の称号を授与することができる。


一方、名誉学位(名誉博士など)は、学術能力を保障する学位と同様の効果を持たず、大学の規定により定められたものであって、基本的に法的な学位とは区別される。(Wikipedia「名誉学位」より)

大学で教鞭を執ることもなく、学術能力の証明もない池田サンが、日本で名誉教授・名誉博士の称号を得ることはまず不可能だろう。

そこで、国外の大学から授与された通算258にも上る称号は、一体何を根拠にしたものなのか、そこに疑惑の目が向けられる。
「世界的な教育・学術への貢献」とは言っても、称号を授与された大学は特定国に偏りがあるし、貢献の具体的な内容も分からない。
何よりも、教授や博士と称されるだけの学術能力の裏付けがない。

池田サンの専門分野と言えば、宗教学、哲学あたりだろうか?
どの分野にしろ、その学界で認められた論文なり、研究成果なりがあるのだろうか?
よく賞賛の根拠に示される対話、講演、出版の類ではなく、あくまで学問上の成果があって初めて、数々の称号にも信頼性が出てくる。

これといった学問成果も持たない人間が、258もの学術称号を授与されていることに「胡散臭さ」を感じない方がおかしい。

会合では、学会員が拍手喝采する中、名誉博士の称号を授与された池田サンであるが、会合でのスピーチにしても、識者のそれには程遠い。
時間を見付けて、スピーチの詳細にも触れたいと思う。

<7/24追記>
ホンドニア連邦大学のサイト http://www.unir.br/
池田サンの博士号授与に関しての記載はなさそう。
一応、大学に授与理由を問い合わせてみます。

<7/26追記>
ホンドニア連邦大学からは音沙汰なしです。
やっぱ相手にされないのかな〜。残念。

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2009年07月16日

松下幸之助の「学ぶ心」

学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。
語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、
この人間の長い歴史、
どんなに小さいことにでも、
どんなに古いことにでも、
宇宙の摂理、自然の理法が密かに脈づいているのである。
そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。
これらのすべてに学びたい。

松下 幸之助

先日、とある学会員に「敵基地攻撃と船舶検査新法を体を張って止める」発言の見解を求めた。
2日間の沈黙の後、船舶検査法が国会に提出された日、以下の様なメールが届いた。

『実際には公明党は産経の書いてた記事の全く反対の政策をとっているらしいよ。昨日のニュースでも報道されてたって。マスコミが適当な記事を書いたみたいやで。』

私がイライラッむかっ(怒り)とするのがお分かりになるだろうか?
人から聞いた事をまる写しにして書いてきているだけで、何一つ自分の考えがない。

この学会員には、次の様な返事を送った。
『人の話を鵜呑みにして私に伝えないで。自分の目で確認して、自分の頭で考える癖を付けてください。
(公明党についてのくだりは中略)
何を信じるかはあなたの自由だけど、信じるものの根拠を、人の話だけに頼るのは止めた方がいい。あなたのメールの書き方も、他人に責任転嫁していて全く説得力がない。自分自身の発言として、その根拠を自分の知識と信念に置くように心がけて。』

この学会員、私が付き合っていた彼である。

創価学会の功績は、思考停止の人間を大量に作り出した事だと、よく批判される。
彼は、その典型と言えるだろう。(まぁ、もともとの頭の悪さもあるけど。)
彼にとって、池田大作の発言はもとより、男子部本部長、部長、創価友達、創価に属する全ての人の発言が無条件で真実となる。
そんな姿が、時に、とても憐れに思える。

さて、彼に入れ知恵をしたのが誰かは分からないが、この入れ知恵主は無責任な情報で彼を丸め込んで満足してるのだろうか。
私なら、彼に自分の頭で考える機会を与えようと思うし、そうしたはずだ。

創価の掲げる「教育」という理念が本物なら、彼は10年以上の創価との関わりあいの中で、もう少しアイデンティティのある人間になれたと思う。
「信者=一票」であるが故に、余計な思考力は邪魔とばかりに、自分の頭で考える機会も時間も与えず、不都合な情報を隠蔽し、耳に心地良い美辞麗句を並べ立てるのが、創価学会のやり方だ。

今一度、創価の敬愛する松下幸之助の言葉に目を通して考えてほしい。
多くのソースから知識を得ること、
その中から何を拾い上げるのかを自分の頭で考えること、
相対する考えをよく租借すること。
こうした事は、多くの創価学会員に欠落しているものだ。

そして、特に指導する立場にある方々には、自分の行動をよく省みてほしい。
仲間を愛する気持ちがあるなら、誰に対しても、その人にプラスになる方法で接するのが、本当の意味での「指導」ではないだろうか。
無責任な助力は、けっしてその人の「学び」にはならない。

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2009年07月10日

「言」と「動」の間にある溝 -2

創価学会員のAさんからメールを頂いたので、紹介させて頂く。

創価(池田大作)は時に耳障りの良い言葉を並べる。誰もが頷ける、納得できる言葉。それは、何も当別な言葉ではない。
私の父母、祖父母も、同じ様に当たり前の道徳を私に教え、私を育ててくれた。
Aさんの言う「あたり前なのに学会員にはできていない事」。それは、社会の常識であり、道徳と言われるものだ。

「言葉」と「行動」の間(はざま)にある溝、それに気づかない学会員が多い。「理想」と「現実」の間にはギャップがある。そのギャップをいかにして埋めていくか、それも宗教の目指すものの一つだという事を学会員は忘れている。いや、学会員にとっては、「創価学会=絶対的正義」が現実であるから、埋め合わせるギャップなど存在しない。与えられた絶対的思想に逆らわず、理想を追い求めなくなった人は、認知的不協和の起こる本当の現実から目を逸らす事しかできなくなる。

<以下、Aさんのメールより(省略箇所あり)>

私が座右にしている指導集を以下に挙げます。

【1】「希望の明日へ −池田名誉会長スピーチ珠玉集−」
   (聖教新聞社、1995年)
【2】「輝きの人間世紀へ −御書とその心−」(聖教新聞社、2003年)

上記の本は、折々の指導を様々な角度で分けて編集してあり、検索しやすいものになっています。私の年代の特に学生部経験者は必携の本と思われます。

例えば、【1】のP421「生活」の章では、

「信仰したからといって、決して、何か特別な姿になるわけではない
まして奇異な行動などあってはならない
学会員はどこまでも社会人であり、一市民である。ゆえに自分自身の仕事と生活を大切にしていただきたい。
また家庭を大切に、そして隣人を大切にしていただきたい。良き市民とし、良き国民として、この現実の社会の中で、模範の人間道を歩み通してほしい。
“正しい信心”による“正しい生活”を――。平成1.5.23」

とあります。
ごく当たり前の内容であり、なかなかできてない内容でもあります。

【2】のP354「信心即生活」の章では、

「家庭でも、職場でも、地域でも、人々から信頼され、尊敬され、好かれ、人々のために必要であり、欠かせない人になっていくことが、正法の信仰の証であり、広宣流布の前進なのである。

日蓮大聖人は、四条金吾に対して、こう教えられている。
『四条金吾は、主君の御ためにも、世間に対する心がけも立派である、立派であると鎌倉の人々から言われるようになりなさい』と。

当時、四条金吾は、讒言されて主君からうとまれ、所領を取り上げられるなど、苦難の最中にあった。大聖人は、苦境にあっても嘆くことなく、自己を磨き、人間として成長することこそ、真実の人間の生き方であり、仏法者の道である、と教えられているのである。

世間から、いわれのない批判や圧迫がなされたとしても、紛動されることなく、人間としての正しい生き方を貫いていく。その人は、最後には、必ず人々の賞賛と尊敬を勝ち得ることができる。――1993.2.10」

とあります。

周りから信頼されてこその信仰者でなければならないんだと思われます。

(以上、Aさんのメールより)
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2009年07月08日

ウイグル侵略と創価学会

中国が、また自国民を虐殺した。
天安門事件、チベット暴動、同じことが繰り返されている。

新疆ウイグル地区と創価学会の関係について、島田裕巳氏は著書の中で、「池田大作なき後の創価学会」(別冊宝島Real)に掲載された、ジャーナリスト青木直人の論文 「池田大作『日中友好』の悲しき光景」を引用し、以下の様に述べている。
ウイグル侵略と創価学会

(つづき)
青木氏、新疆ウイグル地区の開放は、あくまで漢民族から見てのことで、地元のウイグル族にとっては侵略に他ならない、と指摘する。その点からすれば、創価学会の活動は、ウイグル族にとって侵略者側への加担としか映らないというのだ。

(以上、「民俗化する創価学会」島田裕巳著より引用)

さて、聖教新聞では、どの様に報じられているのだろうか。
中国と創価の絆の深さを、創価学会員は「美しい友情」などと思っているようだが、その敬い慕う相手が、権力による弾圧、虐殺を繰り返しているという認識はあるのだろうか。
むしろ、そういう国だからこそ、敬い慕い、「師」と仰いでいるのかもしれないが。
中国首脳と池田大作の会談となると、聖教新聞は天地がひっくり返る様な大騒ぎとなるが、今回の様な都合の悪い事となると、貝のように口を噤む。

これが、世界平和の理念を掲げる宗教団体のお粗末な実態だ。

<参考>
【新疆ウイグル暴動】ゆがんだ真実 「当局情報」世界に発信
ウイグル暴動報じていた最中 中国でNHKニュース中断

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2009年07月02日

移ろいゆくものの美しさ

メルマガ「目からウロコの仏教入門」2009年6月29日配信の記事をご紹介します。
(中略の部分は、上記リンク先にて閲読できます。)

── 無常の教えに立ち返る ──

釈迦の教えの究極は何かと言いますと、それは無常であると思うのです。

無常と言いますのは、この世のすべては変化流動し、固定されたものは一切ないという事です。

人はとかく安定したものを求めたがるわけでありますが、安定を求めるばかりに、それが失われた時に動揺する。激しく苦しむ。
ゆえに釈迦は、世に安定したものなど一切無いという事を前提として生きよと説いたのです。

なぜ、この世は無常なのか?
それは、あらゆるものは、関わり合いの上で成立しているからです。
他のものにまったく影響を受けず、それだけで存在し得るものは何も無いのです。

それはまた人間も同じです。
人はただ一人では生きられない。必ず、他の者の助けを必要とします。
人のものの考え方すら、日々、他からの影響を受けているのです。

それゆえ、「私は」「私は」と、自分に執着するのは間違いである。
謙虚になるべき時は謙虚になり、反省すべき時は反省しなさい。
あなたは、あなたの力だけで、あなたになったわけではないのですよ。
そして、これからもそうなのですよ。

このような考え方が「無我」です。

以上の考え方を身につけておきますと、苦しい事があっても、必要以上に苦しむ事はない。ギリギリのところで、己を支えられる。
仏教では、このように昔から説明して来たのです。

ところが、この基本の部分が、果たして守れているだろうか?
「自分は仏教をやっている」という人でさえ、自分の狭い宗派教義にとらわれ、この原点の部分を忘却しているのではないでしょうか?

私はむしろ、「自分は仏教をやっている」という人にこそ、クセの多さを感じます。
それは、仏教を実践しているというよりは、知的満足のために仏教知識を積み重ねて行き、それゆえ、人生を悟った気になって、尊大になったからなのだと思います。
宗派の片寄った教義が、何らかの性格的偏向をもたらしたのかも知れません。

むしろ、仏教も何も知らなくても、謙虚に柔軟に生きている人をみると、仏教に通じているような気がいたします。

(中略)
人は安定を求めます。
しかしながら、自分という存在、人という存在、いや、世の中という存在そのものが、不安定なものなのです。

「必ず上手く行く」「絶対に成功する」という事は、決してない。
決してないのだと心に刻む事。そこに、かえって安心が生まれます。
仏教の安心とは、絶対的なものを掴まえることで得る安心ではありません。
不安定なものであると悟ることによって生まれる安心です。

(中略)
にも関わらず、仏教を標榜しておりながら、これとは逆の思想を唱える宗派、教団があります。

「○○を拝めば絶対に願いが叶う」などと言う。
「絶対」が無いのが、そもそも仏教なのに、「絶対」と主張する。
自分のところの教義を「絶対」として、他の宗派の教義を否定する。
これは頭の中身がすでに仏教ではなくなっているということです。

(中略)
  死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
  家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。
  帰ると思えば、これまた帰らぬものなり。
  (上杉謙信)  

  災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
  死ぬる時節には死ぬがよく候。
  これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
  (良寛)

我々は朝の露の如く、いつか消えて行く存在です。
無常だからこそ、今に感謝し、今を生きるのです。


(以上、「目からウロコの仏教入門」2009年6月29日配信記事より引用)


「無常」を Wikipedia で引いてみると、こんな事が書かれてあった。

〜日本人と「無常」〜

「祇園精舎の鐘の声」ではじまる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」ではじまる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観をぬきに日本の中世文学を語ることはできない。
単に「花」といえばサクラのことであり、いまなお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。

「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。
「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。


(以上、Wikipedia より引用)

以前、クロさんのコメントにこんな素敵な言葉があった。
『移ろいゆく中で残るものが、真実と呼ばれるものなのかな?』

信じている「確かなもの(=絶対的なもの)」は、本当は脆く儚いものかもしれない。心のどこかでそれを感じて、だからこそ強い執着心が生まれる。けれど、執着心に捉われた心の目で、真実は見えない。

移ろいゆくものと知って尚そのもの(物・者)を愛する時、何も求めない無償の愛だけが在る気がする。
  
posted by ミル1000 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月26日

自分の意思で選んだもの

人間は、意識的にも、無意識にも、毎日の生活の中で、必ず何かを選択して生きている。
それは、自分の人生を左右するほどの重要な選択(例えば進学、就職、結婚の様な)だったり、逆に「ラーメンにしようか、ペペロンチーノにしようか」みたいな、日常の些細な事だったり。
でも、人は、毎日必ず何かを選んで、何かを切り捨てて(諦めて)、一生のうちで数え切れないくらいの選択をしながら生きているものだと思う。

私は、人には、自分の選択をしっかりと意識して、明確しなければいけない時があると思う。
自分が何を選んだのか、何故それを選んだのか、自分の中できちんと認識していないと、自分の選んだ道に無責任になってしまう。

以前、彼は、「どちらも(私も創価も)大切だから、選ぶ事なんて出来ない」と言ったが、「選べない」と言って目の前の決断から逃げたり、後になって、「そんなつもりはなかった」とか「切り捨てたわけじゃない」と言い訳の道を残したりする事は、無責任な行為だと思う。

そんな風に自分の決断と向き合えない人は、その後の人生も、惰性で流されて生きていってしまう危険性がある。
迷ったり、悩んだりした時こそ、苦悩の中から見出した自分の結論をしっかり認識して、自分の選択に責任を持つ生き方をしなければ。

彼の選んだ道は、「恋人の理解を得る為に何かをする」事より、「今の生活(信仰)に波風を立てないようにする」事だった。違うだろうか?

彼が、自分から進んで何かをした事(私を説得する為に)は一度もなかった。
「理解してもらえないなら、諦めるしかない」
最後までこのスタンスは変わらなかった。
「どちらも大切」なんじゃない。大切な方は、始めから決まっていた。
ただ、未だにそれを口にできないだけだ。

「説得できない恋人を、諦めて手放した」
そして、
「たとえ恋人を失っても、創価学会に留まることを望んだ」
これが、彼の結論だ。

逃げてると思われたくないなら、誰に対しても(学会員にも、友達にも)、もちろん私に対しても、堂々とそう言うべきなのだ。

私達がうまくいかなかった原因は、創価学会という宗教団体の存在である事は間違いない。そこから目を逸らしていては、何も変わらない。
今の様な、無知な自分に甘えた生き方をしたいなら、それでいい。
創価を共有できるお相手を見付けて、居心地のいいその世界で、よく分からない大儀の為に、一生闘っていればいい。

ただ、いつ如何なる時も、自分の人生の責任は自分にあるということは、忘れないでもらいたい。
  
posted by ミル1000 at 16:51| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月25日

創価のなんちゃって本尊

今更のテーマだが、一度は取り上げておこう。
未だに事実を知らない、無知な学会員さんがいるかもしれないし・・・。

私は創価学会が何を拝もうが、実はどうでもいいと思っている。
彼らの本尊が、何かの改造だろうが、安っぽいコピーだろうが、有難いと思って拝んでいるなら、別に文句を言うつもりはない。創価の本尊に祈ったからと言って、謗法だ、大罪だ、堕地獄だ、という事も思わない。

私が思うのは、「やり方がセコイね」という事だ。

創価学会が改造に利用した本尊は、大石寺第26世の法主 日寛が浄圓寺16代住職・日證師に授与したものだが、創価学会はこれを否定している。否定しているが、本尊の出所は明らかにしていない。

どうせやるなら、池田サンが書いたものを堂々と配ればいいのに、人様のモノをこそこそと改造して、大量コピーし、学会員に売りつける、その泥棒まがいのやり方があまりにもセコイ!!

以下の画像は、ご覧になった方も多いと思う。
nise_h_kaisetu.jpg

[A]は、授与書を抹消
[B][C][D]は、筆跡に加筆

よく引き合いに出される戸田城聖の言葉がある。

「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、佛立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。」
(『大白蓮華』昭和34年7月号9頁)

学会員は、日々拝み続けている本尊を見て、これっぽっちも疑問に思った事はないのだろうか。


繰り返すが、私は「創価学会が何を拝もうがどうでもいい。」
が、しかし、自分の事を創価の本尊に拝まれるとなると、話は違う。

彼に以前、「いつも私の健康を創価の本尊に祈っている」と聞いていたのだが、先日、キッパリとそれを断った。
私は特別な信仰を持っていないが、仏教、お釈迦様を敬う心はある。そして、私は、創価学会を仏教徒の団体とは認められない。寧ろ、お釈迦様を貶めている。
創価学会は、池田教だ。その池田サンが捏造した本尊に自分の事を拝まれるのが、堪らなくイヤだと思った。呪われる方がまだマシ。祈られるなんてまっぴらごめんだ。

彼の気持ちは心から有難いと思う。私には、その気持ちだけで十分デス。
  
posted by ミル1000 at 19:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月23日

創価学会は中国のコマ

創価と中国の関係について、もう少し触れておこうと思う。

去る6月4日、天安門事件から20周年を迎えた。日本でもそれなりの報道があったが、中国では徹底したメディア、ネットの規制が敷かれ、抗議活動や事件に関わるニュースは悉く封殺されたようだ。天安門被害者は、事件の闇が何一つ解決せぬままの20周年を迎えたと言える。

特集「天安門事件20年」
天安門20年 中国当局、言動を“封殺”

創価学会は、この天安門事件の直後(1990年)に、300人規模の代表団で中国を訪問している。
世界各国が「天安門事件」=「武器を持たぬ市民への虐殺とも言える武力弾圧」に抗議し、中国に対して様々な経済制裁を敷く中での訪中だった。
中国は、この創価訪中団を「熱烈歓迎」し、李鵬首相を始めとする中国首脳が会見に応じたほか、池田氏には中日友好協会から「友好の使者」の称号が贈られた。
中国がこれほどに創価訪中団を歓迎した背景は、想像に難くない。
天安門事件で行った市民への弾圧により、中国は国際社会から孤立し、日本からのODAも停止されていた。
日本政府関係者はこう指摘している。
「経済制裁解除のための外交工作の一環。日本の与党に影響力を持つ池田氏を招請し、ささくれだった日本の世論を和らげ、ODA停止の解除につなげたいというのが中国側の目論見だ。」

池田氏は、このときの訪中について、「友が苦しんでいるときだからこそ、行って手をさしのべるのである」と述べている。
友の救済と言えば聞こえは良いが、現実に池田氏が手を差しのべた相手は、弾圧された庶民ではなく、中国政府当局なのだ。
各国が中国に対する制裁に足並みを揃える中での、創価学会の国際世論を無視した身勝手な行動は、人権を軽視した「日本の恥」と言うべき愚行だ。

ちなみに、李鵬首相は、1995年頃、オーストラリア首相であったポール・キーティングに、「日本という国は40年後にはなくなってしまうかもわからない」あるいは「30年もしたら日本は大体つぶれるだろう」といった内容の発言をしたとされている。
この発言の真偽は定かではないが、もし李鵬首相が天安門直後の創価学会の訪中を心から「歓迎」していたならば、この様な発言はあり得ない。
結局のところ、中国は創価学会を都合良く利用したに過ぎないのだ。

池田氏(創価学会)の人権・人命軽視のスタンスは、中国政府によるチベット弾圧に一切言及しない事にも見て取れる。
2008年北京オリンピック時の、善光寺による「聖火リレー出発地の辞退」は記憶に新しい。
「チベットの宗教指導者が立ち上がり、それに対し弾圧しているので、仏教の寺として考えた」と、善光寺は抗議の意を表した。
世界中のメディアもこれを報じている。(下記リンク参照)
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/51887478.html
(「せと弘幸Blog『日本よ何処へ』より」

池田氏は、2007年の温家宝首相との会談時にも、チベット問題には一切触れていない。
そして、温首相の前で「政治家でなく庶民の王者と会って頂いた」と言っている。
(この発言をテレビ朝日は、「庶民の味方と会って頂いた」と修正したテロップを流したが、創価もテレビ朝日も、流石にこの馬鹿げた発言を全国に放映する勇気はなかったと見える。)

権力による市民の弾圧、虐殺を見て見ぬフリをするのが、池田氏の目指す「庶民の王者」なのだろうか?
それとも、民主化を求めて立ち上がった中国の志士、チベット独立を求める人々が、創価お得意の「仏敵」だとでも言うのだろうか?
だから、虐殺されても当然とばかりに沈黙を通しているのだろうか?
これが、創価学会の謳う世界平和のカタチだと、全ての学会員は胸を張って言えるのだろうか。

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posted by ミル1000 at 17:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月22日

おせっかいな私

先日、彼に会った。GW以来なので、ほぼ1ヶ月ぶりに会った事になる。

訳あって彼は少々落ち込んでいて、そのせいか、私に会いたいと言うし、私も彼の様子が気になっていたので、会うことにした。
彼が、前々から見たいと言っていた『天使と悪魔』を見て、その後、私の希望でカラオケに行った。
会う前に「よりを戻すつもりはない」と釘を刺したけど、ふつうに楽しくデートして、笑顔で「おやすみ」と言って別れた。

その翌週、つまり先週末も彼に会った。
近く、彼は引越しをするのだが、その買い物に付き合って、一緒にごはんを食べた。
そして、また笑顔で「おやすみ」と言って別れた。

翌日の夜は、彼が実家にいた私を、ひとり暮らしのマンションまで送り届けてくれた。
疲れ気味だったので、つい彼の好意に甘えて送ってもらった。
そして、笑顔で「ありがとう」と言って別れた。

そんな訳で、この2週間は、何かとメールを送ったり会ったりしている。
どうも、自分のおせっかいな性格が原因の様な気がする。
彼の引越しが心配で、あれこれ注意したり、引越しの手続きをリストアップしてやったり。
何故、こんなに世話をやいてしまうのか・・・、と言うと、彼があまりにも頼りなくて心配なので、つい余計な事をしてしまう、のだと思う。

長年、ゲゲゲハウス(彼の以前のアパートを彼が自分でそう呼んでいた)で送っていた自堕落な生活を、今回の引越しを機に、是非とも改善してほしいし、万年貧乏の生活から脱出して、生活基盤を建て直してほしい。

私がそこまで心配する必要もないのに・・・、と思いつつも、彼にとっていい機会なので、つい手が動いてしまう。
私のおせっかいも、ここまできたら病気かな。
仕方がないので、引越しが終わるまでは、あれこれ世話をやこうと思う。


『天子と悪魔』は、怖いシーンが近付くと、慌てて目を瞑ったり、上着で顔を隠したりして防御しなければならないので大変だったが、なかなか面白い映画だった。

ラストで枢機卿のひとりがこんな事を言う。
「宗教には欠点もある。だが、それは人に欠点があるからだ。
 誰しも、私にも。」

私は、この言葉に、自らの欠点を見つめることができる「ヴァチカン−カソリック教会」の懐の深さを垣間見た気がした。
彼も、何かを感じただろうか。それは、もう聞かないでおこうと思う。
  
posted by ミル1000 at 20:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月15日

日中国交正常化の立役者

1987年9月、池田大作は日中国交正常化についての提言をした。

「今日こそ日本は、この世界的な視野に立って、アジアのの繁栄と世界の平和のため、その最も重要な要として、中国との国交正常化、中国の国連参加、貿易促進に全力を傾注していくべきであることを重ねて訴えるものであります」

創価学会では、この池田提言によって日中国交正常化が実現されたと主張し、そう学会員に教え込む。
池田大作自身が、「日中国交正常化の立役者は自分である」と自己アピールしているからだ。

だが、島田氏は著書の中でこう指摘している。

(以下引用)----->
日中国交正常化までの過程を記した本を読んでみると、創価学会や公明党関係のものを除けば、池田の提言が重要な役割を果たしたという指摘は全くなされていない。そもそも、池田の提言自体言及されていないのが一般的である。
(中略)
現在の創価学会、公明党は、この池田提言を、当時の中国が高く評価したかのように主張している。しかし、1974年5月に、池田が初めて中国を訪問したとき、池田は毛沢東主席にも周首相にも会うことができなかった。もし中国が、池田提言を本当に評価していたとするなら、少なくとも周首相は池田を歓迎したはずだ。

<-----

出版物を見ても、池田提言を評価している(提言に触れている)文章は全て、学会系出版社から出されている。
日中国交正常化においては、池田大作より、公明党元委員長 竹入義勝の果たした役割の方が明確であり、その功績は大きい。
しかし、国交正常化の功労者として竹入が評価される一方で、池田提言が思った程に評価されない事が火種となって、竹入は創価学会によって激しく糾弾されるようになった。

創価学会の目的は、学会系メディアを使って池田提言への評価を意図的に作り上げ、竹入元委員長を貶めることで、その功績を奪い、池田の功績にし立て上げる事なのだ。

しかし、池田提言が日中国交正常化に大きな影響力を持たなかった事実は、その経緯を記した書籍(もちろん学会系出版以外の)を読み、中国側の対応を見れば、容易に知れる事である。

先の引用にもある様に、池田氏は国交正常化(1972年)後の訪中時(1974年)に要人との面会が叶わなかった。
更に、1998年に来日した江沢民主席は、池田氏との面会に先立って、竹入元公明党委員長と懇談している。江主席は、日中国交正常化に寄与した人物として竹入氏を迎賓館に招き、「周恩来首相は生前、水を飲む時に井戸を掘った人を忘れてはいけない、と言った」と発言し、日中国交正常化や日中平和条約の締結に寄与した竹入氏らの業績に感謝の意を表している。


創価学会員が信じている日中間の歴史は、創価学会が自分達に都合のいい様に創り上げた捏造に過ぎない。
知識の収集を、聖教新聞の記事や会合の演説、内部の出版物に限定してしまうから、自分の歴史認識が誤っている事に気付かないのだ。
偏った知識には、何の説得力もない。誰を納得させる事も出来ない。
必要なのは、多くの情報に触れ、そこから真実を拾い上げる判断力を身に付ける事ではないのだろうか。

学会外に溢れる情報は、仏敵でもなければ、魔でもない。
それは、人を正しく導く為の道標なのだと思う。


<参考>
■民俗化する創価学会(島田裕巳著)
日中国交正常化(Wikipedia)

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posted by ミル1000 at 14:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月10日

御書にもそぐわない創価の教義

頂いたコメントから、更なる納得を得てしまったので、整理してみた。


「折伏教典」は、池田さんが会長時代に監修したもので、末法における釈迦の教え、法華経の力を否定している。
 ↓↓↓

その証拠に、「釈迦仏法は末法無益」と信じる学会員が多くいる。
 ↓↓↓

しかし、池田さんは折伏教典を公に修正する事なく廃刊にし、その後の著書(「法華経の智慧」)の中で、「法華経は末法の衆生を救う慈悲の教え」だと、異なった見解をしれっと述べた。
 ↓↓↓

法華経の中には、「経典を受持・読誦することが供養となるので、物質的な供養は必要ない」とある。
 ↓↓↓

池田サンも、会長時代、「創価学会は、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。」
と断言していた。

 ↓↓↓

しかし、池田サンは、またまた勝手に180度の方針転換。
「新・人間革命」の中で、「学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である。これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。」 と法華経完全無視!の自論を展開。

 ↓↓↓

極め付けに、日蓮大聖人の御書までも完全無視!!
 ↓↓↓

何故かと言うと、「妙法比丘尼御返事」(P1412)には、「仏法の中には仏いましめて云く法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」とある。

つまり、日蓮聖人は、『公然と法華経を否定し、法華経の教えに背いて財務(物質的供養)を正当化する創価(池田サン)こそが、釈迦仏の御敵で必ず無間地獄に堕ちる』 と言っている事になるからだ。

 ↓↓↓

創価学会では、この日蓮の御書を教義の根本としている!
 ↓↓↓

創価の教えって、支離滅裂!!

それでもバリ活学会員さんが望むなら、池田サンに尽くせばいい。
でも、少しでも迷いのある学会員サンは、勇気を出して正しい道へ軌道修正してほしい。
何年、何十年の信仰を捨てるには、相応の不安、迷い、苦しみ、障害があると思う。でも、勇気を出して、今、一歩踏み出してほしい。
人は、何歳になっても、どんな状況からでも、やり直せる。
人生の全てが積み重ねなのだから、「やり直す」という言葉は適切ではないかもしれない。創価で過ごした年月がゼロになる訳ではなく、その上に新しいものを積み重ねていくだけなのだから。

【参考サイト】
創価学会は「生命の変形の被害者」と「釈迦仏の御敵」の集りか?
NOTHING TO YOU by Libra様 より) 

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posted by ミル1000 at 13:53| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月07日

釈迦を越えた池田大作

一昨日、創価の役員Aさんにお会いした。
以前にも一度お目にかかっている方なのだが、最近ひとりで煮詰まっていたので、Aさんに連絡を取り、話を聞いてほしい旨お願いしたところ、学会活動でお忙しい中、時間を割いて下さった。
やはり、創価の事は創価学会員に聞くのが一番手っ取り早い。

私は、身近に創価の話を出来る人がいないので、Aさんは心置きなく創価の話が出来る貴重な方だ。それに、学会員オーラが強烈ではないので、割と何でも話しやすい。
・・・まぁ、私は誰にでもポンポン物を言うから、Aさんがどう感じておられるかは分からないが、今のところ怒らずに聞いて頂いている。有難い事だ。

Aさんとのお話で考えがまとまった部分を、昨日の記事(『一家和楽の信心』 と 『広布基金(財務)を考える』)にアップした。

今日は、もう1点気になったところを書いておこうと思う。

Aさんとこんなやり取りの場面があった。

ミル:「池田さんの師弟不ニって、結局“自分を守れ”って事でしょう?指導者として自分が信徒を守るべきなのに、自分を守れっておかしくないですか?」
Aさん:「私達が、ちゃんと出来てない(守れていない)からそう言っているんだと思います。“お前らそれで大丈夫なんか?”と心配しているから、ハッパをかけているのだと思います。」
ミル:「これだけ多くの学会員が学会活動にのめり込んでいるのに、それでもまだ“守られていない”と思うなんて、なんちゅうエゴや。」

それから、こんなやり取りも。

ミル:「なぜ、親としての責任を放棄してまで学会活動にのめり込んでしまうんでしょう?」
Aさん:「為そうとしているコトの大きさが・・・」(←私が遮った気がする)
ミル:「大儀の為には家族を犠牲にしてもやむを得ないという事ですか?」
Aさん:「そうなってしまっていますね。」

いつだったか、創価批判をする私に、彼が言ったことがある。
「みんな、創価学会員である前に、ひとりの人間やねんから。」

そう、その通りだ。私も全く同感だ。
けれど、現実は「ひとりの父親・母親である前に、創価の為の(もしくは池田サンの為の)創価学会員」となってしまっているではないか。

当たり前だが、Aさんの考え方はとても「創価学会流」だ。
Aさんは、他の学会員さんの様に、無闇に「池田センセイ」を連呼したりしないが、言葉の端々に池田サンの存在の大きさを感じた。

学会員にとって、池田大作は釈迦を超えているのだと思う。

私の「仏教は釈迦のものであって、日蓮のものではないでしょう?」
という指摘に、Aさんはこう答えた。
「けれど、末法には釈迦の教えも通用しないんです。」

あぁそうか、と思った。
池田サンも釈迦仏教を完全に否定している。

「折伏経典」より
「釈迦の法はもう過去のもので何の利益もない」(P63)
「われわれは釈迦仏法に縁のない民衆であることを知らねばならない」(P65)
「日蓮聖人が末法の御本仏であらせられる」(P67)
「釈迦等のとうていおよぶ分際ではない」(P316)
「釈尊出世の本懐である法華経でさえも末法の今日には全く力はない」(P93)
「この大御本尊を拝む以外に末法の衆生は基本的に幸福になれないのである」(P70)
「釈迦仏法など立てるのは去年の暦と同様で役に立たないしろものである。これを使用するから生活に破綻をきたすのは当然である」(P303)
「俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に不具者ができたり、知能の足りない子供が生まれたり、はては発狂する者ができたりして〜」(P321)


「私は、日本の国王であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」

気分が悪くなる。もう、ため息しかない。
創価には、釈迦も、仏教も、法華経もない。池田大作が全てなんだ。

末法は、その時期・意味に諸説ある。詳しい知識がないのだが、私は、現代を「釈迦の教えが通じない世」だとは思わない。
創価が仏教的思想からかけ離れているのは、彼らが釈迦を捨ててしまっているからなのだ。
そんな人達に、いくら釈迦の言葉や寛容の心を伝えてみたところで、受け入れられないはずだ。

妙な納得を得たところで、しばらく創価から離れようと思う。
ここ数日、いろいろ考え過ぎた。

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posted by ミル1000 at 16:45| Comment(19) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月06日

広布基金(財務)を考える

ネット検索でこんなものを見つけた。

財務の小冊子1http://www.geocities.jp/masakitugimori/sg/PA190178.JPG
財務の小冊子2http://www.geocities.jp/masakitugimori/sg/PA190185.JPG

(↑表示されない場合は別ウィンドウのアドレスバーにコピペして下さい)

こんなモノまで作って財務を競わせてるのか。何だかなぁ・・・。
お布施ってランク付けされるものなのか?
「全員」の意義って何?? 生命までかけなあかんの??

これって、戸田サンの「金のないのに出す必要はないぞ」や、池田サンの「永久に、ただの一銭も供養を願うようなことはいたしません」という言葉を裏切ってないか?

いや、違うな。裏切っているのは、池田サンの方だ。
地区の幹部が、功徳だの、真心だの、公宣流布だの、正義の闘いだの御託を並べて末端会員からお金を搾り取っているのは、池田サンがそう命令しているからだ。
トップダウンの徹底された創価で、まさか地区の幹部が揃いも揃って勝手に財務を強要しているワケではあるまい。

地区幹部は、実質的な財務のノルマを背負わされている。
だから、何としても会員達にお金を出してほしい。
会員の幸せの為ではなく、自分の地位を守る為に。

一、地区部長は少なくとも10万円以上の財務をすべきである。
一、預貯金全部を出すのは当たり前。
  それにどの程度上乗せするかが信心の戦いだ。
一、各支部で10万円以上出す人を20人以上作れ。
一、1口2口しか出さない人は信心がない証拠だ。
一、支部内で100万円以上の大口を何人作るかが、支部長の戦いだ。
一、個人指導、家庭指導で3口以下の財務部員がいないようにする。


課せられたノルマを背負って、地区幹部は学会員宅に出向き財務の額を確認してまわる。生活が苦しい人でも、例え借金があっても、かつての戸田サンの様に「金のないのに出す必要はない」とは決して言わない。
むしろ、「苦しい時にこそ財務を」と会員の信仰心を煽り、財務に駆り立てる。そして、財務が原因で生活が破綻する様な事になれば、「信心が足りない」と切り捨てる。

果たして、これが「供養」の正しいあり方なのか。
供養が信心から行われるものであるなら、その正誤を問うのはナンセンスかもしれない。
ならば、「信者に絶対の幸せを確約する」宗教で、信者を誤った道へと導き、破滅へと追い詰め兼ねないこの現状が見過ごされているのは何故なのか、と問いたい。
活動家の中から、軌道修正を求める声が挙がらないのは何故なのか。
組織の誤りを認識する一部の学会員も、巨大な組織の前では正義心を捨て、見て見ぬふりをするだけなのか。
それが釈迦の信徒として、日蓮の信徒として正しい姿だと、胸を張って言えるのだろうか?


もうひとつ、財務の明細・用途について公表を求める声が挙がらない事も不思議でならない。

私なら、自分が苦労して手にしたお金がどの様な形で役立てられるのか知りたい。と言うより、お金を出す以上、その用途にも責任を持つ事は当然だと思う。
「供養」だから、学会を信じているから後はお任せ。こうした態度を、私は無責任だと感じる。根拠はなくとも「良い事に使われている」と信じて人任せにしてしまえば、自分も満足するし、考えなくていいから楽だろう。
そう、ただ楽をしているだけなのだ。

学会員は、自分達の汗と血の結晶である学会の資金が、無駄に浪費されている現実と、その可能性について、真剣に考えるべきではないだろうか。

実際、弓谷男子部長の様な幹部の給料に消え、負け続ける裁判費用と賠償金に消え、メディアの篭絡に消え、池田サンの有り余る憲章と引き換えに消えるお金がいかほどのものか、私には想像もできない。

因みに、池田大作氏の過去の納税額は以下の通り。

 1995年度 2億4109万円
 1996年度 2億1206万円
 1997年度 2億3751万円
 1998年度 1億7200万円
 1999年度 1億5396万円
 2000年度 1億1883万円
 2001年度 1億3616万円
 2002年度 1億1537万円
 2003年度 1億2774万円
 2004年度 1億2895万円

ま、人の財布の中身に興味はないけど、池田サンの巨万の冨が、宗教法人法の恩恵と、公明党の策略と、学会員の献身によって築かれたものである事は間違いない。

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posted by ミル1000 at 20:36| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記