2009年08月06日

お釈迦の真意はどこに

先日、とあるサイトで、創価大学の学生さんに「法華経『分別功徳品』の思想」と「創価学会の財務」の整合性について意見を求めた。

法華経「分別功徳品」については、6月7日の記事「釈迦を越えた池田大作」にあるLibraさんのコメントを参照頂きたい。

Libraさんは、「法華経の信仰者は物質的な供養を必要としない」という創価大学の菅野博史教授の見解を紹介して下さっている。(Libraさんのサイトに詳細説明あり)

創価大学の学生さん相手であれば、あわよくば菅野教授ご自身の解釈が聞けるかも・・・と期待したのだが、「創価大学のコミュニティで特定団体についての質問は不適当」とのクレームがあり、結局、大学院生さんお一人の回答しか得られなかった。

大学院生さんの回答は以下の通り。
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(いわゆる根本仏教と)『法華経』を日蓮以上に重視する立正佼成会についてならまだしも、『法華経』からひとっとびに創価学会の宗教理論に話を移すのには無理があるかと思いますが、菅野先生の解釈によれば、当然「広布基金」の宗教的妥当性とは齟齬(そご)がある文言でしょう。
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「創価学会の財務が『法華経』の思想に反している」ことは、指摘するまでもない様だ。
では何故、創価学会では財務が「これに勝る供養もなければ、大善もない」と言われているのだろうか?
学会員は、なぜ財務(金銭)を幸福に結びつけるようになってしまったのだろうか?

学会員の皆さんには、財務の前に、是非この点について考え、答えを見つけて頂きたいと思う。


もう一点、学会員の皆さんに考えて頂きたい事がある。

大学院生さんの文章の中で、私は、法華経の思想と創価学会の教義がかけ離れたものであるかの様な表現に引っかかりを覚えた。
この疑問点について質問すると、大学院生さん曰く
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日蓮が鎌倉時代という文化的脈絡の中で『法華経』を最高の経典であると見なしたことは事実ですが、彼の『法華経』解釈そのものが独特なので、その思想を受容することと、(日蓮とは異なった文化的脈絡の中で創作された)『法華経』において説かれるなり象徴されるなりする思想を受容することとは必ずしも一致しません。
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残念ながら、「法華経に象徴される思想」と「日蓮の独特な法華経解釈」の間にある具体的な相違点にまで質問が及ばなかったのだが、大学院生さんの文章を読む限り、「法華経(=釈迦の教え)」と「日蓮の教え」は切り離されて考えられている様だ。

以前、法華宗の僧侶である妙さん(当ブログの読者様)が、次の様に指摘しておられた。

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学会では、表現のすり替えが頻繁に行われています。例えば、「釈尊の法華経」とか「釈迦の仏法」という表現をよくしております。
これは、まるで釈尊が説く以外の法華経や仏法があるかのような表現で、信者を誘導する時に使う常套手段であると思います。
結果それが「創価の日蓮仏法」という、まるで新たに説かれた真実の仏法が別にあるという終着点に信者を落とし入れる為の仕掛けとなるのです。
日蓮聖人の御書は法華経を正しく読み解くためのご指南書として位置づけられております。つまり経典とは違うわけです。
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妙さんのご指摘の通り、創価学会の教義は、事実「御書根本」とされている。これは何かおかしくないだろうか?

仏教は、釈迦が生み出したものだ。日蓮が説いたのは法華経にある釈迦の教え・思想であって、日蓮教ではない。
釈迦なくして法華経はあり得ないし、法華経なくして日蓮の教えもない。

創価学会の「御書根本」という考え方は、土台のないところに家を建てるようなもの。成り立つはずがないのだ。

「続)お釈迦の真意はどこに」へつづく)


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posted by ミル1000 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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