2009年06月25日

創価のなんちゃって本尊

今更のテーマだが、一度は取り上げておこう。
未だに事実を知らない、無知な学会員さんがいるかもしれないし・・・。

私は創価学会が何を拝もうが、実はどうでもいいと思っている。
彼らの本尊が、何かの改造だろうが、安っぽいコピーだろうが、有難いと思って拝んでいるなら、別に文句を言うつもりはない。創価の本尊に祈ったからと言って、謗法だ、大罪だ、堕地獄だ、という事も思わない。

私が思うのは、「やり方がセコイね」という事だ。

創価学会が改造に利用した本尊は、大石寺第26世の法主 日寛が浄圓寺16代住職・日證師に授与したものだが、創価学会はこれを否定している。否定しているが、本尊の出所は明らかにしていない。

どうせやるなら、池田サンが書いたものを堂々と配ればいいのに、人様のモノをこそこそと改造して、大量コピーし、学会員に売りつける、その泥棒まがいのやり方があまりにもセコイ!!

以下の画像は、ご覧になった方も多いと思う。
nise_h_kaisetu.jpg

[A]は、授与書を抹消
[B][C][D]は、筆跡に加筆

よく引き合いに出される戸田城聖の言葉がある。

「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、佛立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。」
(『大白蓮華』昭和34年7月号9頁)

学会員は、日々拝み続けている本尊を見て、これっぽっちも疑問に思った事はないのだろうか。


繰り返すが、私は「創価学会が何を拝もうがどうでもいい。」
が、しかし、自分の事を創価の本尊に拝まれるとなると、話は違う。

彼に以前、「いつも私の健康を創価の本尊に祈っている」と聞いていたのだが、先日、キッパリとそれを断った。
私は特別な信仰を持っていないが、仏教、お釈迦様を敬う心はある。そして、私は、創価学会を仏教徒の団体とは認められない。寧ろ、お釈迦様を貶めている。
創価学会は、池田教だ。その池田サンが捏造した本尊に自分の事を拝まれるのが、堪らなくイヤだと思った。呪われる方がまだマシ。祈られるなんてまっぴらごめんだ。

彼の気持ちは心から有難いと思う。私には、その気持ちだけで十分デス。
  
posted by ミル1000 at 19:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
宗門から破門され、創価が宗門のことを会合や新聞紙上で連日ボロクソに言ってた頃、日寛上人の書写した御本尊に取り替えよう!
というふになりました。
その頃はあまり何も考えることもなく、ウチも取り替えました。
たしか3000円でした。
そうとうの数ですから、大儲けですね^^;。
創価は全てお金、とにかくモノを買わせます。

私は御本尊そのものに対するこだわりはあまりないかなぁ。。
ただ、何十年も朝晩勤行し・何かにつけて祈ってきたので
その習慣は染み付いてますね。

今は創価は大嫌いですし、なくなったほうが世のため人のためだと確信しています。
ただ、私としては信仰心は大切に思っています。
それは特定の宗教団体に属するのじゃなく、生きとし生きるものたちを育む宇宙の存在、それを神と呼んでも真理と呼んでも、またグレートサムシングと呼んでもいいのですが、そういう存在を敬い感謝する。
私はそれが信仰心と思えてならないのです。

そして、その信仰心の究極は「感謝」ではないだろうか・と最近思っています。
もちろん創価や池田氏へじゃないですよ。(笑)
今、こうやって生きてられること・周囲の人達や様々な出来事
それらに感謝し生きることが信仰のように思います。
よき事を思い・良き行動をして・出来るだけ感謝して生きれば、人は幸せに生きていける。
それでよくて、宗教団体は必要ないと思います。

思い・・さらにそれが濃くなり切なる思い
それは「祈り」と言ってもいいと思います。
思いや祈りは、量子力学的にみても影響力はあります。
何とか良き方向に!と思うきれいな気持ちの祈りはそれはそれで
何らかの良き結果に繋がると思います。

人生・生きてると切なる思いや祈りたくなるような時もあります。
ある人は夜空を仰ぎ星に祈る・ある人は輝く太陽に祈る
また赤い夕日に祈る人もいらっしゃるかもしれません。

で、私はというとご本尊に祈るという行為。
これに慣れちゃってるわけです^^。
手を合わせ、同じ言葉を繰り返し同じ姿勢で祈る行為は
祈り方としては気持ちが集中出来て便利なんですよね。

ただ最近は、こうして欲しい・ああして欲しい・ああなりたい
これが欲しいという祈りは殆どありません。
やはり、ありがとうございます!という感謝が殆どです。
そして朝晩の勤行にも、あまりこだわってはいません。
創価が勝手に決めた、三代会長への感謝をご祈念文に入れた勤行などは引いてしまいますし・・・

一応、法華経は読み・題目は上げるのですが、「池田にNO! 宇宙にYES!全てに感謝の祈りを捧げます!」などと思い、祈ってます。
生きとし生きるモノ全てを育む宇宙・神・・その存在への感謝のつもりで勤行してるのが実態です。

祈りにお金はかかりません。
感謝にお金はかかりません。
本来の信仰にお金はかかりません。

機関紙の多部購読や書籍・民音の購入、強制的な寄付、選挙活動
多忙を極める諸活動でのガソリン代や電話代。
そんなふうに時間とお金を費やさせることなど、信仰ではないし
幸せとは全く関係ありません。

むしろ、不幸になっていきます。
人は本来、幸せに生きるようになっています。
感謝の気持ちは、その幸せに拍車がかかると思います。

ところが、やたらお金を使わせて・さらにタダ働きさせる・・・
みんな無理するから、時間的にも経済的にも困ったなぁと思うことが当然起きてくる。
その気持ちは、またそう思いたくなるような現実に繋がっていきます。
だらか現実として、私の周りにも創価に熱心な方は何かと困ってる方が多いです。

支離滅裂なコメントですみません^^;。
Posted by kan at 2009年06月26日 19:20
kanさん、いつもコメントありがとうございます。

>私としては信仰心は大切に思っています。

はい。信じる事はとても大切だと思います。人間にとって、とても大きな力になる。信仰が人々の中で受け継がれている所以でしょうね。
ただ、信仰は諸刃の剣です。自分の立ち位置をしっかり自覚していないと、本来身を守るはずの術が、自身を傷付け、他者をも傷付ける事になる。

今後、若い学会員の中からその傷を癒そうとする人達が出てくれるといいですね。
互いを矯正し合える関係でなくては、良き信仰心も生まれないと思います。
Posted by ミル at 2009年06月28日 10:20
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