2009年06月06日

一家和楽の信心

学会員の家庭において、信仰が家庭不和の原因となっている例は少なくない。
本来、人を幸せにする為の宗教が、信仰に傾倒すればするほど不幸の要素を作り出している様では、本末転倒甚だしい。

幸せや平和は、自分ひとりのものではないはずだ。人と人の繋がりの中に感じてこそ、そこに本当の意味での幸せが生まれるのではないかと思う。

創価の妄信会員は、兎角、物事の順序を取り違えがちではないだろうか。
彼らは、何事にも「創価は正しい」という大前提を置き、その後に諸々の現実や問題を付随させて考える。
例えば、返済しなければならない借金があるのに財務やマイ聖教を優先したり、親としての責任(家事や子育て)を放棄して学会活動に明け暮れたり、活動の為に仕事をおざなりにしたり。

彼らが道を誤っている事は明らかだ。
学会員のAさんによると、こうした良識ない行動は『法を下げる』と言うらしい。

かつて、戸田城聖は「一家和楽の信心」を説き、「供養は苦しんでやるものではない」と指導していた。

「経王殿御返事」講義より引用 (1957.7.18 大阪市中之島公会堂)

金のないのに出す必要はないぞ。そんなことで金を出してもろうては、わしは困る。貧乏人からまで金をもらってやるわけにはいかん。だから、そんな大講堂の方への寄付金などは、君はやめ給え。
(中略)
供養というものは、そんな苦しければやらなきゃいい。楽しんでやるようでなければ供養になりません。だから、そんな苦しければ、ご供養なんかやめなさい!これはわしの命令だ!するな!しないでよろしい!誰のためにするんだ?自分のためにするんじゃないか。俺のためにしてもらうんじゃない。やめろ、やめろもう!心に少しの負担を感ずる者はご供養はしては相成りません。功徳にならないから。


この考え方は、現在の創価学会でも変わってはいないはずだ。
しかし、多くの学会員は、こんな風に思っていないだろうか。

 ・苦しい時ほど財務を頑張ることが功徳につながる
 ・財務はいつか何倍にもなって返ってくる
 ・聖教新聞は読まなくても買うことが信心の証
 ・学会が為そうとしている大儀の為には家族の犠牲も止むを得ない
 ・仕事で責任を果たす事より、学会活動の方が世の為人の為

現在の学会で、この様な偏向した指導が積極的に行われている。
その目的は、ひとりひとりの会員の為ではなく、学会組織を守る為、ひいては池田サンを守る為、それに尽きる。

『新・人間革命』第4巻「凱旋」の中に、この様なくだりがある。

学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である。
これに勝る供養もなければ、大善もない。
ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。


前述の戸田城聖の言葉と比較してみてほしい。
そして、かつての池田サン自身の言葉とも比べてみてほしい。

 創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も
 寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。

(1962.6.16 聖教新聞より)


この数ヶ月、彼を見ていて感じた事でもあるが、創価学会は末端地域においては、ある意味素晴らしいコミュニティを作り上げている。
しかし、素晴らしいコミュニティとは、互いを矯正し合える関係でなくてはならない。親としての責任、社会的責任を見失っている人達に、誤りを指摘し、正しい道へ連れ戻す事が、良きコミュニティの姿であり、宗教人としてのあるべき姿だと思う。

信心とは、巨大組織の歯車になる事ではない。
組織の大儀の為にたったひとりの人でも犠牲にするべきではないし、ひとりの犠牲者も見過ごすべきではない。
人の不幸の上に成り立つ幸せなんてあり得ない。
誰かの幸せを犠牲にして築かれたものに何の意味があるだろう?
  
posted by ミル1000 at 12:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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