2009年03月22日

「現世利益」と「法罰論」

創価学会の「ご利益」と「罰」について考えてみた。

「現世利益」とは、
  神仏の恩恵や信仰の功徳が現世における願望の実現として
  達成されること

この世で願いを叶えてくれるのは、神様でも仏様でもお題目でもなく、
自分自身だ。
座してただひたすらに祈っていたところで、願いは叶わない。
池田サンも「怠けてはいけない」と言っているし、学会員も「努力なくして勝利なし」ということは理解しているはずだ。

では、努力を重ね、真面目に勤行した人の願いが叶わなかった場合、
「約束された勝利」はどこへ消えたことになるのだろうか。
これは、「努力が足りない」もしくは、「信心が足りない」という事に
なるらしい。
単純明快な回答だ。言い換えれば、ミもフタもない。
そして、「その時は思うような結果にならない場合があったとしても、
後になってみると、一番良かったという方向になっていく」のだそうな。
こちらは、何とも曖昧な、お茶を濁した様な回答。
(創価学会HP「新会員のために」より)

所詮、「約束された勝利」「約束された幸せ」など、どこにもありはしない。
どんなに努力しても勝利を掴み損ねることもある。
健康な人が、事故や怪我、病に倒れることもある。

そういう時に手を差し伸べる事こそ、傷ついた心を救う事にこそ、宗教の存在意義があると思う。

お題目の力の及ばない事に、「信心が足りない」の一言で切り捨てられてきた学会員は多いのではないだろうか。
学会は、都合の悪いことに目を瞑り、教義の矛盾を、信者に責任転嫁
してきたのではないか?
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「法罰論」はどうだろう。
罪には罰が下ることがある。因果応報という言葉もある。

では、罪とは、日蓮や、唱題や、学会を否定するということなのか。
それが「仏罰」につながる仏教の真理だと言うなら、疑問は大きい。
罪とは、道徳・正義に反することだ。
人を傷つけたり、自分を裏切ったりする事だ。

そもそも、人の幸・不幸を第3者が判断するなど、愚かな事だと思う。

不幸な出来事や苦しみも、それが「罰」だとは限らない。
見方を変えれば「乗り越える為の試練」と言える。

私は、この世に無駄なものなどない、意味の無い事など起こらない、と
信じている。

例えば、自分の病気も、愛する人の死も、絶望のどん底に落ちる事も、人間には必要なことだと思う。
苦しみも悲しみも、いつかその人の財産となる。
そこから学ぶことがいかに多いか。
快楽から得るものよりも、ずっと深く大きく人を育てる。

だからこそ、苦難を乗り越えた人は、人を魅了し、万人の賞賛を得るのではないだろうか。

身に起こる幸・不幸をどう捉えるかは、当人の「心の真理」で判断すれば良い。

1958年、福岡県久留米市で開かれた学会の「第一回男子部九州総会」の講演で、当時、参謀室長だった池田サンは、こう述べた。
(1961年発行「会長講演集第三巻」に掲載)

 大東亜戦争の際、日蓮正宗を国家が弾圧し、創価学会を弾圧し、
 二度の原子爆弾の投下をされております。
 一発は九州、一発は広島。
 日本の国が正法を誹謗した報いです。


アメリカ軍によって投下された原子爆弾を「仏罰」と断言している。

創価学会を弾圧したことが、広島と長崎の人々、子供達、動物達、草木の一本一本に至るまで、罪のない生命を断罪しなければならない程の、「釈尊の真理に背く大罪」だと言うのか。
posted by ミル1000 at 16:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
う〜ん。
素晴らしい。
勉強させていただきます。
Posted by 鳥取県民より at 2009年04月10日 16:03
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