2009年03月15日

3.16記念座談会

3.16記念座談会というものを見てきた。

3月16日は、創価学会の記念日で「広宣流布記念の日」というらしい。
(詳しくは、『SOKAnet』参照)

参加者は少なかった。
壮年部の役員さん、進行役さん、婦人部の方2人、男性2人、彼と私。

座談会の流れは、
 題目 → 3.16記念日のDVD →「大白蓮華」読上げ(1頁だけ)→
 体験談 → ?(先に帰ったのでその後は不明)

人数が少なかったせいなのか、いつもそうなのかは分からないが、地味な集まりだな、と思った。

DVDの内容は、昭和33年当時の映像にナレーションが付いたものだったが、ここでもまた『坊主達の策略に屈せず云々・・・』という、大聖人にお聞かせするにはいかがかと思える言葉を連発。
何の事はない、DVDは結局、池田サンの賞賛に流れていき、池田サンを称えて締めくくられている。

「大白蓮華」は、見開き1頁を数人で読み上げ、進行役の方が、少しばかり感想を述べていた。
「負けじ魂を養っていきましょう」だったかな?
この大白蓮華の朗読文も、もちろん池田サンが書いたものだ。

同時中継でも、座談会でも、見聞きしているものは全く同じではないか。
全てが、池田サンに返っていく。

「師弟不二」という言葉で池田サン妄信を約束させ、「公宣流布の戦いに勝利」するという大義名分のもと、学会のコマとして働かされる
繰り返される池田サンの自我自賛は、世界中からの賞賛にすり替えられ、日蓮の教義は、池田哲学(池田教)へと姿を変える


会合、座談会、聖教新聞、日々の活動で、何度も何度も繰り返される教えが、心の隙間に入り込み、やがて個人を支配していくのだろうか。

座談会に集まった人々は、自身や家族の病気を語っている人もいた。
私の彼もまた、少年時代に辛い経験をしている。

宗教を心の支えに苦難を乗り越えるということ自体は素晴らしい事だと思う。
人の心を救う事こそ、宗教の本来の役割であり、存在意義だと思う。
しかし、それは「救いを求める心が、宗教に支配されない限り」の話だ。

この座談会の場で、私はかなりはっきりと自分の意見を述べてきた。
学会の約束する幸せを、全ての人に「絶対」と言い切れるのか。
新聞啓蒙にしろ、公宣流布にしろ、その必要性は何なのか。
良いものは、自然と人々に認められ広がっていくものだ。
そして、この座談会が果たして人を育てていると言えるのか。

新聞啓蒙の体験談を話した男性に、私は、「どんな言葉で啓蒙するのですか?」 と訊ねた。
答えたのは、何故か、役員さんだった。
この役員さん曰く、
「産経新聞や朝日新聞が販売活動をする様に、聖教新聞も活動しているんです。こういうものは、活動しなければ、自然と広まるものではないですから。」

産経や朝日が販売活動するのは当然でしょう。
彼らは商売ですから。

我がダーリンの話にも頭を抱えたくなった。
役員さんに、「君は、学会に入ってどういうところが変わったの?」と聞かれ、「会社に遅刻しなくなって、時間を守る様になれた」との事。
役員さんは、「それはいいことだね!!」と頷き満足そうだった。
が、「それって社会人として当然の事でしょう・・・」 という私の呆れた突っ込みに、役員さんは「その通り!!」と力強く賛同。

あの、ちょっと、会合のレベルが低過ぎやしませんか?
幼稚園児の集まりじゃあるまいし・・・。

座談会の締めに、進行役さんが私に向かって言った。
「私たちも、まだまだあなたの意見に回答できない事もあるので、
 もっと勉強していかなくてはいけないと思います。」
その進行役さんの言葉を、何故か、役員さんが片手を挙げて制した。
絶対的正義の理念のもと、如何なる事でも非は認められないのだろう。

この座談会に集まった6人の方々は、「良い人達」だったと思う。
皆、純粋な信仰心を持って生きている様に感じられた。
噂に聞いていた様な強引な折伏も全くなかった。
「一度、お題目を唱えてみたら?」と薦められたくらいだ。

私は、集まった学会員の方々の信仰心を正そうなどという気は毛頭ない。
彼の前で学会の矛盾を問いかけ、彼自身に考える機会を与えたいだけだ。

座談会の帰り、彼が一言、
「ホントに、はっきり物を言う子だねぇ・・・」
  
posted by ミル1000 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 学会訪問記録
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