2009年08月21日

要は、気持ちの問題!?

創価について彼と話すとき、彼はとにかく黙る。ひたすら沈黙する。
そんな時、「オレは貝になりたい もうやだ〜(悲しい顔)と思っていたに違いない。
何も喋らないくせに、そのうち彼の方が疲労困憊してくる。そして私が話すのを諦める。
男子部の部長に「女性と話すにはエネルギーが必要だ」と言われたことがあるらしい。
「部長の言う通りやわ〜」と、いつもぐったりしていた。
そんな彼に、ある時こう言った。
「そんなん当たり前やん。男と女は究極の関係やねんから。命と命の繋がりやねんから。そりゃエネルギーも使うわ。」と。

感覚で喋ったので、自分でもイマイチよく分からないのだが・・・、
心が繋がるから肌のぬくもりを求め、身体を重ねることでまた心が結び付く。そんな命と命が触れ合う時間があることが、究極だなと感じた。

私の批判攻撃にぐったりと倒れ込む彼を見て、よくからかった。
の私にエネルギー吸い取られてるんやわ〜。」
この時だけは、彼はちゃんと断言する。
「ミルは魔なんかじゃない。そんなんオレが決める。」

要するに、その人自身の気持ちの問題なのだ。決めるのは宗教じゃない。

そう言えば、公明党市議Kさんも、以下の様な指摘で返答に困ると「気持ちの問題」に摩り替えようとしていた。

・彼が裁判の無敗を信じ込んでいたのは会合でのMCが原因だと指摘した時
⇒Kさん自身が、正本堂裁判全敗の事実を知らない。

・都議選の議席数、得票数の減少が、創価衰退の証拠だと指摘した時
⇒途中で話を遮られた。

・出所不明の日寛の本尊を改造コピーだと指摘した時
⇒祈る気持ちの方が大切らしい。ちなみにこのコピー本尊は3000円。ボロ儲け。

・創価で幸せになれなかった脱会者の多さを指摘した時
⇒幸せになっている人の方が多いと言うが、証拠はない。

・功徳を積んでいるはずの幹部が犯罪を犯す事実を指摘した時
⇒創価にも世の中と同じ割合で犯罪者がいるらしい。←創価にいる意味なし!

・池田さんの学術称号の多くが専門学校レベルのものだと指摘した時
⇒「山ほどの受賞=世界の評価」論を押し通す。

・財務によって破綻する学会員が少なくない現実を指摘した時
⇒「財務は自己責任」と問題意識がまるで無し。

・互いを矯正し合う相互扶助の関係がないことを指摘した時
⇒学会は個人の自由を尊重しているから、矯正し合うという考えはないと断言。

・地域によって幹部の指導にバラつきがあることを指摘した時
⇒他の地域の事は分からない。でも組織は完璧だと言い切る。←指導がバラバラでも完璧?意味わからん。


最終的に、Kさんは、私が愛用するミニPCを指して、要はご本尊様に一生懸命祈るその気持ちが大切。そんなパソコンで細かく細かく調べてるくらいなら一度ご本尊に祈ってみろ、と言うのだ。

学会員は何かと言うと「デマだ中傷だ」と言い張るから論拠を示して話をしてるのに、「気持ちの問題」に逃げるのはどうかと思う。
これが、認知的不協和を解消して自分を守ろうとする本能なのだろうか?


島田裕巳氏が著書の中でこう述べている。

『新・幸福論』(2004年 潮出版)で説かれている「楽観主義」というものは、心の持ち方を変えることで幸福を得ようというもので、これは日本の宗教全般に共通する基本的な考え方である。何ら特別なものでもなければ、新鮮で特異なものでもない。これでは、他の宗教と同じでしかない。
心の持ち方で問題が解決するなら、現実的な行動(勤行、折伏、選挙など)は必要なくなる。『新・幸福論』は教えを現代に即したものにしようと、心理学的な思考を取り入れているが、それは従来の創価学会の考え方とは、じつは正反対のものになってしまっている。
毎日お題目を唱えることで、幸福は実現できるのか?
創価学会の信仰のスタイルの「賞味期限」は、切れかかっているのかもしれない。
組織として頂点を迎えたあとには、往々にして衰退が待っている。今、創価学会はその境目にさしかかっている。

(『民俗化する創価学会』P113〜P120より)
posted by ミル1000 at 21:50| Comment(24) | TrackBack(0) | 日記