2009年07月02日

移ろいゆくものの美しさ

メルマガ「目からウロコの仏教入門」2009年6月29日配信の記事をご紹介します。
(中略の部分は、上記リンク先にて閲読できます。)

── 無常の教えに立ち返る ──

釈迦の教えの究極は何かと言いますと、それは無常であると思うのです。

無常と言いますのは、この世のすべては変化流動し、固定されたものは一切ないという事です。

人はとかく安定したものを求めたがるわけでありますが、安定を求めるばかりに、それが失われた時に動揺する。激しく苦しむ。
ゆえに釈迦は、世に安定したものなど一切無いという事を前提として生きよと説いたのです。

なぜ、この世は無常なのか?
それは、あらゆるものは、関わり合いの上で成立しているからです。
他のものにまったく影響を受けず、それだけで存在し得るものは何も無いのです。

それはまた人間も同じです。
人はただ一人では生きられない。必ず、他の者の助けを必要とします。
人のものの考え方すら、日々、他からの影響を受けているのです。

それゆえ、「私は」「私は」と、自分に執着するのは間違いである。
謙虚になるべき時は謙虚になり、反省すべき時は反省しなさい。
あなたは、あなたの力だけで、あなたになったわけではないのですよ。
そして、これからもそうなのですよ。

このような考え方が「無我」です。

以上の考え方を身につけておきますと、苦しい事があっても、必要以上に苦しむ事はない。ギリギリのところで、己を支えられる。
仏教では、このように昔から説明して来たのです。

ところが、この基本の部分が、果たして守れているだろうか?
「自分は仏教をやっている」という人でさえ、自分の狭い宗派教義にとらわれ、この原点の部分を忘却しているのではないでしょうか?

私はむしろ、「自分は仏教をやっている」という人にこそ、クセの多さを感じます。
それは、仏教を実践しているというよりは、知的満足のために仏教知識を積み重ねて行き、それゆえ、人生を悟った気になって、尊大になったからなのだと思います。
宗派の片寄った教義が、何らかの性格的偏向をもたらしたのかも知れません。

むしろ、仏教も何も知らなくても、謙虚に柔軟に生きている人をみると、仏教に通じているような気がいたします。

(中略)
人は安定を求めます。
しかしながら、自分という存在、人という存在、いや、世の中という存在そのものが、不安定なものなのです。

「必ず上手く行く」「絶対に成功する」という事は、決してない。
決してないのだと心に刻む事。そこに、かえって安心が生まれます。
仏教の安心とは、絶対的なものを掴まえることで得る安心ではありません。
不安定なものであると悟ることによって生まれる安心です。

(中略)
にも関わらず、仏教を標榜しておりながら、これとは逆の思想を唱える宗派、教団があります。

「○○を拝めば絶対に願いが叶う」などと言う。
「絶対」が無いのが、そもそも仏教なのに、「絶対」と主張する。
自分のところの教義を「絶対」として、他の宗派の教義を否定する。
これは頭の中身がすでに仏教ではなくなっているということです。

(中略)
  死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
  家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。
  帰ると思えば、これまた帰らぬものなり。
  (上杉謙信)  

  災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
  死ぬる時節には死ぬがよく候。
  これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
  (良寛)

我々は朝の露の如く、いつか消えて行く存在です。
無常だからこそ、今に感謝し、今を生きるのです。


(以上、「目からウロコの仏教入門」2009年6月29日配信記事より引用)


「無常」を Wikipedia で引いてみると、こんな事が書かれてあった。

〜日本人と「無常」〜

「祇園精舎の鐘の声」ではじまる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」ではじまる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観をぬきに日本の中世文学を語ることはできない。
単に「花」といえばサクラのことであり、いまなお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。

「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。
「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。


(以上、Wikipedia より引用)

以前、クロさんのコメントにこんな素敵な言葉があった。
『移ろいゆく中で残るものが、真実と呼ばれるものなのかな?』

信じている「確かなもの(=絶対的なもの)」は、本当は脆く儚いものかもしれない。心のどこかでそれを感じて、だからこそ強い執着心が生まれる。けれど、執着心に捉われた心の目で、真実は見えない。

移ろいゆくものと知って尚そのもの(物・者)を愛する時、何も求めない無償の愛だけが在る気がする。
  
posted by ミル1000 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記