2009年05月29日

強く儚い者たち

弱いから心変わりするのか、強いから新しい愛に惹かれるのか。

恋愛も夢も、手にするものもあれば、失うものもある。
諦める事ができるなら、それでいいと思う。
失いたくないなら離さなければいいし、諦めきれないなら取り戻しに行けばいい。

神様は、見守っていてくれるかもしれない。
でも、幸せを掴むのは自分の手。 決めるのは自分の心。
信じるのは自分自身の力 パンチ

 るんるん <Yu Tube>で聴く

  lyrics by こっこ  music by 柴草玲

 愛する人を守るため 大切なもの築くため 海へ出たのね
  嵐の中で戦って 突風の中生きのびて ここへ来たのね

    だけど飛魚のアーチをくぐって 宝島が見えるころ
     何も失わずに 同じでいられる思う?

   人は弱いものよ とても弱い者よ

 「あんなに愛し合った」と 何度も確かめ合い 信じて島を出たのね

    だけど飛魚のアーチをくぐって 宝島が見えるころ
     何も失わずに 同じでいられると思う?

   人は強いものよ とても強いものよ

    きっと飛魚のアーチをくぐって 宝島に着いた頃
     あなたのお姫様は 誰かと腰を振ってるわ

   人は強いものよ そして儚いもの

  
posted by ミル1000 at 17:33| Comment(2) | TrackBack(0) | Songs in my Heart

2009年05月27日

法華経の来歴

『日経ビジネスオンライン』 というメルマガを登録している。
登録しているだけで、ほとんど読んでいなかったのだが、「諜報謀略講座」というコーナーの中に面白い文章を見つけたので、ご紹介しておこうと思う。

簡単に要約したものを載せるが、法華経の成立にまつわる、とても興味深い話なので、創価学会員の方にも熟読されることをお薦めする。

第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖
(東京農工大学教授 松下博宣)

(以下、要約)
法華経が書かれたのは釈尊滅後からほぼ500年後、紀元前50年から紀元前150年くらいのことである。
仏教経典に精通する博覧強記の僧である智は、「全ての御経はお釈迦様が説いたことがらを記述した正当なテキストである」という大前提のもとで、次のように経典の価値を判定(教相判釈)した。
お釈迦様は、最初に華厳経をお説きになった。その教えが難しいため、次に平易な阿含経をお説きになった。そして、方等経、般若経をお説きになり、最後の8年間で法華経と涅槃経をお説きになった。そして最後に説いた法華経がお釈迦様の最も重要な教えであるとした。
これを五時教判という。
しかし、智の前提「全ての御経はお釈迦様が説いたことがらを記述した正当なテキスト」は、実は間違いだった。近年、内外の学問研究によって法華経は仏陀釈尊直説を記した経典ではないということが歴然と判明している。
日本に伝わった中国経由の仏教の正当性、正統性が問われる一大事である。日本の仏教徒は、ある意味、偽物の経典を信じて(信じさせられて)きたことになる。そして法華経の影響は、仏教界はおろか、政治、経済、教育の諸制度にまで甚大に及んでいる。
“de facto”とは「作られたるがゆえの」を意味するラテン語だが、ある時代の人材がインテリジェンスをもって次の世代に熱烈な信仰者を生む仕組みを作り、そこから新たな才能を持つ人材がまた別のインテリジェンスをもって次の世代の熱烈な信仰者を生む仕組みを作っていく。この精巧なインテリジェンスの連鎖により、時代や地域を超えたデファクト・スタンダードを作り上げる「強い力」が生み出された。


第6講:語られ得ぬ法華経の来歴

(以下、要約)
法華経創作は、大衆部の僧らが原始キリスト教の福音を参照した(影響を受けた)可能性がある。
その根拠として、第一に、法華経の成立時期とトマスによるインドへのキリスト教伝道の時期が符号するという時代背景。第二に、法華経の構成論理が、上座部系の経典には全く見られず、仏教の脈絡からは隔絶したものであり、かつ福音書の論理構成と同型であること、がある。
法華経は、一乗妙法、久遠本仏、菩薩行道を、法華経の真実性、絶対性、優位性とともに繰り返し説く。福音書は、イエス・キリストのみを救い主として信じ、十字架による罪の償いを受け入れ、その教えを他者に伝えることで誰もが等しく救済されると説く。両者の論理構成は同じなのである。
また、法華経に多用されている「如是我聞」という文言は非常に重要である。「法華経」フィクション・ライターは、独自のストーリーを作り上げ、「如是我聞」=「私はこのように直接お釈迦様からお聞きしました」と虚偽の言説を埋め込んだのである。
インドの「法華経」フィクション・ライターの共同謀議による経典捏造の社会的インパクトは広大無辺といっていほど甚大なものであった。仏教経典のデファクト・スタンダードとして、ユーラシア大陸東部のほぼすべての地域で広く流布し、漢語、チベット語、ウイグル語、モンゴル語、満州語、朝鮮語にまで翻訳されて伝播した。2000年という長きにわたる歴史に浸透させることに成功したからだ。日本でも大きな影響を及ぼしたことは前回述べたとおりである。
1900年くらい前に、「如是我聞」という4文字が物語に加えられ、それが仏教経典になった。約1900年後に、遥か東方の日本で選挙が行われ、その仏教経典をかつぐグループに関連する政党が政治の動向を左右している。事後的に歴史を振り返れば、法華経の来歴にはありありとバタフライ効果(初期値の小さな差が思いもよらぬ差となって結果に表れること)が見てとれる。
この欺瞞工作、ノイズ挿入を仕掛け、後の世に途方もないバタフライ効果を放った一派は、天才インテリジェンスの集団である。法華経を創作して後世に伝播させたインテリジェンスの天才達は極楽浄土からこの不思議な風景を見下ろしてニヤニヤ笑っているのだろうか。あるいは地獄に堕ちて、事の顛末を見上げて苦しみもがき懺悔しているのだろうか。

  
posted by ミル1000 at 17:31| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

サヨナラは今も・・・

今日、5月27日はZARDの坂井泉水さんの命日、今年3回忌を迎えるそうだ。

恋愛は、終わっても結構引きずってしまう方で、諦めが悪いのか、根に持つタイプなのか・・・。

でも、恋愛のキズは大抵、時間が癒してくれる。
年月が経てば、苦〜い思いでもオブラートに包まれた様にボヤけてくるし、何となく、かつて愛した人の幸せを願っていたりもする。
「サヨナラは今も・・・」という人はいないから、ちゃんと卒業できているんだろうな。

創価の彼は、まだ分からない。
いつだったか、こんな事をメールに書いたことがあった。

    誰かに必要とされたいから
      誰かの為にガンバってる


  この歌詞がすごく好き。


自分を必要としてくれる人がいたら、すごく嬉しいものだ。
誰もみんな、本当は寂しがり屋で、孤独を抱えてる気がする。


 るんるん<YuTube>で聴く

 サヨナラは今もこの胸に居ます

  Lyrics by 坂井泉水
  Music by 栗林誠一郎
  
posted by ミル1000 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | Songs in my Heart

2009年05月26日

道標

 るんるん <YuTube>で聴く

ZERO のエンディングに流れているのを聴いて、恋愛の歌だと思っていた。
YuTubeで通して聴いて、母親のコトを歌ってるのかな・・・と思い直したけど、母じゃなくて、祖母を想い、故郷を想う歌だったらしい。

そういえば、先週末、母方の祖母が風邪をひいているというのでお見舞いの電話をかけた。すごい鼻声で電話に出た祖母は、私を叔母と勘違いし、疲れた様子の受け応えだった。
祖母は、いつも孫(私)と娘(母と叔母)の声を聞き間違えるのだ。
私が、「私の事、誰だか分かってる?」と聞くと、そう言われて初めて私だと気付き、途端に声が明るくなり、元気に喋り出した。
ここまで喜んでもらえると、私も無性に嬉しくなる。

今年、米寿を迎えた祖母の元気な声を、私はいつまで聞けるだろうか。


 道標  Music & Lyrics by 福山雅治

 私はその手が好きです ただ毎日をまっすぐ生きて
 私達を育て旅立たせてくれた あなたのその手が好きです

 雨に打たれても 土に触って ひとつひとつ種をまく背中は
 あきらめた夢も きっとあるでしょう だけど私には笑顔で

  愛に出会い 愛を信じ 愛に破れて
   愛を憎み 愛で許し また愛を知る

  風にふかれ 迷い揺れて 生きるこの道
   あなたの笑顔 それは道標

 私はこの海が好きです この弓なりに続く線路の
 あなたが生まれ育った海に来ると 後悔が軽くなる気がして

 傷もためらわず 痛みもかまわず 勝つ事ただそれだけが正義と
 壊れてもまだ走り続ける私にも あなたは優しく

  人に出会い 人を信じ 人に敗れて
   人を憎み 人を許し また人を知る

  風にふかれ 泣いて笑い生きるこの道
   あなたの笑顔 それは道標

 風にふかれて走っています あなたがくれたこの命の道を

  
posted by ミル1000 at 15:43| Comment(2) | TrackBack(0) | Songs in my Heart

2009年05月25日

Story

彼には、感謝している事もある。創価の問題で悩んだだけの日々ではなかった。
数年前に手痛い恋愛をして、その時からずっと引き摺っていたコトを、何でもない事の様に受け留めてくれた。
もしかして、創価問題と同様、ただ深く考えていないだけかもしれないけど・・・。どちらにしても、彼の茫洋としたところが、気の強い私にはちょうど良かったのかもしれない。

優しいところもあったし、気遣ってくれる時もあった。創価以外の事では聞き分けも良くて、寒がりの私の為に、冬の夜はよく「湯たんぽ」になってくれた。

 Lyrics by Ai
 Music by 2SOUL for 2SOUL MUSIC INC.

 限られた時の中で どれだけの事ができるのだろう?
 言葉にならないほどの想いを どれだけあなたに伝えられるだろう?

  ずっと閉じ込めてた 胸の痛みを消してくれた
  今 私が笑えるのは 一緒に泣いてくれたキミがいたから・・・

     ひとりじゃないから キミが私を守るから
     強くなれる もう何も怖くないよ

   ひとりじゃないから 私がキミを守るから
   あなたの笑う顔が見たいと思うから

  時に人は傷付き、傷付けながら 染まる色はそれぞれ違うけど
   自分だけのストーリー作りながら生きてくの
    だから ずっとずっとあきらめないで


 るんるん <YuTube>で聴く
  
posted by ミル1000 at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | Songs in my Heart

2009年05月24日

Jupiter

平原綾香の「Jupiter」は、大好きな曲のひとつ。

初めて聴いた時から、この言葉がずっと心に残っている。

 愛を学ぶ為に孤独があるなら
  意味のないことなど起こりはしない



るんるん<YuTube>で聴く

 Music by G.Holst
 Lyrics by 吉元由美

 Every day I listen to my heart
 ひとりじゃない
 深い胸の奥で つながってる

  果てしない時を越えて輝く星が
  出会えた奇跡 教えてくれる

        私のこの両手で何ができるの?
        痛みに触れさせて そっと目を閉じて

    夢を失うよりも悲しいことは
    自分を信じてあげられないこと

  私を呼んだならどこへでも行くわ
  あなたのその涙私のものに

         私たちは誰もひとりじゃない
         ありのままでずっと愛されてる

    望むように生きて輝く未来を
    いつまでも歌うわ あなたのために・・・

  
posted by ミル1000 at 14:51| Comment(5) | TrackBack(0) | Songs in my Heart

2009年05月21日

パチンコと民団と創価

 『パチンコ店における出玉の換金行為を取り締まり、
 かかる行為を完全に違法化するよう求める請願』


なるものを見つけた。

かつて2度程、やむなくパチンコ店に足を踏み入れたことがあるが、自分のお金をパチンコに貢いだこと一度もない。
財布のヒモは硬い方だし、パチンコ店はタバコ嫌いの私が10分以上耐えられる場所ではない。何より、私にはその面白さが理解できないので、お金を捨てているとしか思えないのだ。

そんな訳で、今まで全く興味も持たなかったパチンコであったが、
『パチンコ→民団→創価学会・公明党』 の繋がりを問題視する以上、無関心でいる訳にもいかない。

現在、日本国内にあるパチンコ店の経営者の7割〜9割を、在日韓国・朝鮮人が占めている、と言われている。
民団 (在日本大韓民国民団) 傘下の「在日韓国商工会議所」に所属する1万社のうち、約7割がパチンコ業に係わっており、パチンコ産業は民団の「基幹産業」であり、朝鮮総連の「資金網」となっているのだ。

日本国内で、数々の事件や犯罪の原因となり、また「パチンコ依存症」という深刻な社会問題を引き起こしている有害無益の「賭博」がなぜ合法的な「娯楽」として認められるのか。

驚くべきことに、韓国では2006年にパチンコが法律で禁止され、全てのパチンコ店が廃業しているのである。
民団は、「在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を遵守します」としながら、我が国において自国で違法となったパチンコをその基幹産業とし、「健全なレジャー産業」として推進しようとしているのだ。
更に、民団と在日韓国商工会議所により合同設立された「レジャー産業健全化推進協会」の会合には、韓国国会議員や、在日韓国大使館関係者が出席しているという。
あろうことか、韓国は国をを挙げてこれを支援しているのである。

そして、日本が侵食されているこの現状を助長しているのが、民主党であり、公明党・創価学会なのだ。

ブログ「博士の独り言」にこうある。

-----(引用)-----

民主党が地方参政権付与を主張する背景には、同党と民団とのつながりが深く、在日韓国人との結びつきが強いためで、いわば、一政党の党利党略に過ぎない。
公明党が同じく主張する背景にも、韓国創価学会の維持・発展のために、同国の大統領選挙(1998年)での金大中氏支援のため、教団信者を動員し、さらに、日本での、在日韓国人に対する地方参政権付与を約束した「創価学会」の都合によるものだ。
すなわち、こちらも公明党なりの党利党略に他ならない。
これらは、いずれも「党」の都合でもあり、その「都合」のために、日本の主権を根幹を切り売りしようとしているのである。


民団の綱領には、「大韓民国の憲法と法律を遵守する」と明記されているが、「日本国憲法」については触れられていない。
日本国を侵食する団体に「法的、政治的、社会的権益」を与える事は、国益を損なうどころか、国を滅ぼすことになりかねない。
政治家には、国益を守り、国を護る義務があることを忘れないでほしい。

<参考>
ブログ「博士の独り言」
パチンコを淘汰せよ

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posted by ミル1000 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 公明党・政治関連

2009年05月20日

宗教と現実の相違

メルマガ『目からウロコの仏教入門』を読んでいる。
18日配信の「宗教と現実の相違」から、一部引用してご紹介する。

── 宗教と現実の相違 ──

自分と同じ宗教をその人も信仰しているからと言って、決して安心してはならない。
その人が自分と同じような考えであると思ってはならない。
あくまでも宗教とは漠然とした、観念的なものであり、現実における具体的な判断の仕方は、また別個なのです。

宗教と現実は異なるのです。
現実はとても重いものです。
宗教と、現実生活における思想が乖離していたとしても仕方がない。

ですが、それでいいのだと思うのは間違いです。
乖離したままで良いと思うのは間違いです。
ならば、その人にとって宗教は趣味に過ぎない。
宗教と現実の乖離を、できるだけ近づけねばならない。
近づけて行こう。
そう思って励むことこそ、修行なのではないでしょうか。

残念なのは、乖離していることに気づかぬ人であります。


(引用ここまで)

要するに、理想と現実のGAPに気付き、その溝をいかに埋めていくか。
認知的不協和の生じる現実を直視し、安易な認知修正に走ることはないか。
時に自分自身を省みる事が必要なのだろう。

宗教が謳う正義やモラルに反する信者や組織の言動に気付いた時、宗教理念に従えば、これを指摘し軌道修正すべく働きかけなければならない。
けれど、巨大組織の中でそう出来ない現実に直面する。
多くの人は、その他大勢の信者の意見に沿う様に、自分の考えを修正してしまう。

−これだけ多くの人が信仰しているのだから、間違っているはずがない。
−多くの信者の中には、過ちを犯す人もいる。
−組織悪は、世の中の悪と闘う為に必要なことだ。

認知的不協和を解消する為に、軸となる正義やモラルの方を捻じ曲げて修正してしまうのだ。
何故なのか?
現実に直面するより、遥かに楽に問題を解決できるからだ。
そうやって、本来の宗教理念とはどんどんとかけ離れたところに向かっていってしまう。
そして、自分と組織に都合良く作り上げられた思想と、本当の姿を映さない捻じ曲げられた現実だけが残ることになる。


『目からウロコの仏教入門』は配信無料なので、考え方の違いを感じるところも諸所あるものの、拝読している。
ご興味のある方は 配信登録 されてみてはいかがだろうか。
  
posted by ミル1000 at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月19日

支え合ういのち

阪神淡路大震災の時のこと。
神戸に住んでいた祖母と親戚一家、親戚の老犬が我が家に避難してきた。
このワンコ(おばあちゃん犬)は、震災による疲労のせいであったか、老衰であったかはっきりと覚えていないが、我が家に来た時には、もう、ごはんにも散歩にもウチの愛犬(元気盛りのオス)にも興味を示さず、声を出すことすらない程に衰弱していた。

ところが、我が家の愛犬は、このおばあちゃん犬に、“大変”興味を持ったのだ。
彼女をターゲット内の女性と判断し、精力的に追い回し始めた。

この積極的(なりふり構わない?)アプローチに“女心”を触発された(?)おばあちゃん犬は、数日のうちに驚異的な若返りを見せて私たちを驚かせた。
彼女は、モリモリとごはんを食べ、散歩中も力強く歩き、鬱陶しくまとわり付くウチの愛犬に吠えかかるようにもなった。

この事件を思い出す度、神秘的な様で、実は何よりも自然な事なのだと感じ入る。
老いを感受し、静かに最期を待つ老犬の心が、若さ溢れる生命力に触れ、その体に生きる気力が蘇ったのだ。
動物の心は純粋なだけに、こうした現象が顕著に現れるのではないかと思う。

このおばあちゃん犬は、我が家を去ると、また以前の状態に戻り、その後間もなく静かに永眠した。

人間も、年齢に関わらず、他人から気力や活力を与えられる機会は多い。
落ち込んでいる時に励ましてくれる人から、悲しみを共感してくれる人から、悩み事を相談できる人から。
独りで生きていくことは、人間にとっても動物にとっても、とても厳しいことであり、支え合うことのできる存在が、相互の生命力の糧となっている。
こう考えても、考え過ぎではないと思う。

創価学会のコミュニティの中には、こうした支えあう力が大きく働いているのだろう、と思う。
共依存、MC、信仰を条件にした関係であったとしても、「救われた」と感じる人は確かにいるのだ。
大げさな言い方かもしれないが、いのちの糧を得ることができた組織に、その人間が心酔していくのは当たり前だろう。
人と人の繋がりが希薄な現代社会にあって、こうしたコミュニティが大きな魅力となっている現実は否定できないのではないかと思う。
もちろん、これは末端組織に限られたことであって、組織の中枢は善良な信者を食い物にして肥大しているのだが、幹部の悪行が、盲目となった末端信者の目に映ることはない。

もし、善良な末端会員たちが、組織の悪業に気付き、自分たちの力で創価組織を変えていってくれたら・・・。
そして、日本社会にも、政治が変わり、メディアが変わり、一般人の意識が高まり、社会全体にその歪みを正そうとする自浄作用が起こってくる可能性はないだろうか。
   
posted by ミル1000 at 16:38| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月17日

別れ

彼に、もう会うつもりがない事を伝えた。

三度の「ポイ捨て」が堪えた。
やはり、宗教人として、いやそれ以前に社会人として当然持つべきモラルが備わっていないのは、彼自身の責任だと思った。
本来、宗教活動を通してこうした意識改善も為されるべきなのだろうが、あの攻撃的な会合で環境意識が養われるとは思えない。しかし、彼のモラルの欠如の原因を、創価の教義に帰するにも無理がある。
彼自身の人間性の問題だろう。

彼が、この愚行の為に私に見限られる事になっても、創価に捨てられる事はないだろうから、ある意味安心はしている。
彼が、今回の事をどこまで内部に告白するのかは知らないが、妥当な落ち着き方はこんなものだろう。

「確かに彼女の言う事は正論ですね。今後気をつけていきましょう。
彼女が創価学会を批判するのは、私たちの事をまだ十分に知らないからでしょう。
けれど、君が彼女を同中や座談会に連れて来た事は、とても意味のある事ですよ。君の行いは『下種』となっていつか花開くはずです。
数ヶ月間、彼女の批判に耐えて、よく頑張って対話しましたね。
彼女もいつかきっと、創価学会の正しさを理解してくれるでしょう。」

想像(創造)し過ぎだろうか?当たらずとも遠からず、といったところか。
何にせよ、彼は創価と共に、「彼が」幸せだと思う道を進んでいくのだろう。

私の思いが通じなかった事は、悔しいし残念でならない。
昔付き合った人とも、しょっちゅう思考が噛み合わず、何度も何度も歯痒い思いをした。
でも、どんなに涙ながらに訴えても、通じない思いはある。
他人に思いを伝える事が不可能だと言っているのではない。
どんな情熱や愛情を持ってしても、それだけではダメなのだ。
同じだけの忍耐と根気と思いやりと、そして想像以上の時間が必要なのだと思う。

今私が直面している問題は、宗教的思想の違いに加えて、人間の品格を問う価値観の違い、それは「ポイ捨て」だけではなく、金銭の問題にも及んでいる。
私には、これ以上、彼を支え、先の見えない時間を彼と共に過ごす「意味」を見出すことができない。
  
posted by ミル1000 at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月15日

八百万の神様

日本人の宗教には、古来、神様と仏様が共存してきた。
神仏習合は日本の文化であり、現在も私達の生活に根付いている。

寺院、神社、天満宮、稲荷大社、私達は神様仏様を同じ様に大切にし、折々手を合わせる。
家の中に神棚と仏壇があったり、お寺に鳥居があったり、日本人は合理的かつ柔軟に神仏を共存共栄させてきた。

私は「スタジオジブリ」の作品が大好きなのだが、宮崎アニメの中には、必ず<神>の存在がある。
風や、森や、川の神様が、いろんなカタチで登場する。

そうした万物への崇敬の念は、大人たちの感動を呼び起こし、子どもたちの心に自然と溶け込む。そして、自然や生命への愛情、時として畏怖の念を抱かせる。
そうした感情が、人の心を豊かにしていくのではないかと思う。

多感な幼年期に、たったひとつの固定観念を押し付けることは、豊かな感性を損なうことになりはしないだろうか。
日蓮の、創価の教えだけが正しいと刷り込まれた2世、3世の方々の成長後の苦悩が、ネット上には溢れている。
信仰を子供たちの足枷にした親の責任は、計り知れないものがあるのではないだろうか。

信仰が本来の意味を失わない限り、その真偽や優劣を問う必要などないはずだ。
創価の掲げる「平和」「教育」「文化」は何も創価特有のものではなく、どの宗教団体も目指すものは似たり寄ったりなものなのだから。
それぞれの宗教が、それぞれのやり方で信者を救い、共栄共存していけば良いではないか。
開放された精神で万物を敬うこと、本当の祈りとは、その様なものではないだろうか。
「我こそは」と他を押しのけ、のし上がろうとするから、反感を買い嫌われるのだ。
釈尊も八百万の神々も、何と愚かしい事よ、と嘆いているに違いない。
  5/19 追記
posted by ミル1000 at 19:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月14日

ポイ捨て

GW中に友達に誘われて、『フジコ・ヘミング』のピアノコンサートに行った。私は、幼少期から二十歳頃までヴァイオリンを習っていたので、クラシック音楽に割と馴染みがあるが、ピアノのソロコンサートは初体験で、『フジコ・ヘミング』 という名前も「聞いたことあるな〜」程度だった。

オフィシャルサイト 【INGRID FUJIKO HEMMING】 に、こんな事が書かれてある。

(引用)----------------->
公演活動で多忙を極める中でも、米国同時多発テロ後の被災者救済のために1年間CDの印税を全額寄付を決定や、アフガニスタン難民のためにコンサートの出演料を寄付したりと、人を愛し人を支援し続ける事を忘れないのも彼女の人間味溢れる魅力のひとつで、その優しさは猫や犬をはじめ動物愛護への深い関心と援助を長年続けていることにも現れている。
<------------------------

今回の公演もチャリティーコンサートで、私も僅かばかりの寄付をさせて頂いた。

タイトルと全く関係のない様な書き出しとなったが、人を助けること、いきものを愛すること、自然を保護すること、どれも生命に対する慈しみの表れで、何かひとつを切り離して考えることはできないと思う。

「ポイ捨て」は、彼が私の目の前でやった。それも、3度目だ・・・。

1度目も2度目もメチャメチャ怒った。
人間として当然のマナーも守れないくせに、何が仏教だ。
「創価は素晴らしい」だの、「世界の平和」だの言う前に、自分が捨てた吸殻を誰が掃除するのかを考えた事があるのか。
創価は、そんな基本的な生き方すら学べないところなのか、と。

兎も角も、私は彼の「ポイ捨て」を2度見逃した。
それ以後は、そのサイテーの行為を目にする事はなかったのだが・・・。
彼は、意外にあっさりと「地雷」を踏んでくれた。

彼は犬が好きで、連休中に何度か、私のワンコと一緒に散歩に行った。
ワンコも喜んで、元気に走り回っていたし、彼もそんなワンコを見てとても楽しそうだった。
そんな絵に描いた様なひと時をブチ壊してくれたのが、彼のポイ捨てだ。

私は、彼にこう言った。

「意識レベルが低すぎると思う。これは、もう人間性の問題なんかな。
これまで、創価学会を含め、自分の周りにその行為を注意してくれる人はおらへんかったん?
むしろ、同じ愚行をする人達ばかりとしか思えへん。
『心がける』というレベルの問題ちゃうで。
やらへんのが『当然』やねんから。」

少なくとも、創価という「教育組織」の中で、彼が最低限の生活マナーすら身に付けていないことは、確かだ。
創価の親友についても然り。
モラルある人間で友人を想うなら、そんな愚行は止めさせているはずだ。
人迷惑を顧みず、強引な勧誘や法律に触れる選挙運動を繰り返す学会員に、社会的モラルを求める方が無駄か、とも思うが。

「仏の顔も三度まで」とはよく言ったもの。
彼との付き合いは、当然考え直すべきだろうな・・・。
   
posted by ミル1000 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年05月08日

ivote アイヴォート

随分前にニュースで紹介されていたのを思い出して、検索してみた。

若者の投票率向上を目的する学生団体ivote(アイヴォート)

■ivote(アイ・ヴォート)とは
ivote(アイ・ヴォート)とは、若者の投票率向上を目指し活動する学生団体です。
メンバーは現在7名で、全員現役大学生。様々な大学の学生が集まっています。
活動内容は政治的中立の立場を貫いています。


恥ずかしながら、私の学生時代は、政治などに全く興味はなく、従って投票にも出向いた記憶もほとんどない。
こうして活動している学生の方々に、脱帽する。
posted by ミル1000 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 公明党・政治関連

2009年05月07日

闘わない日々

今年のGWは、ほぼ毎日、彼と顔を合わせた。

特別どこかに出かけたワケではなく、映画を見て、ごはんを食べて、彼の部屋を掃除して、昼寝をして、一緒にワンコの散歩に行って。
慌しい用事の合間に、他愛ない、穏やかな休日を過ごした。
創価の話を一度もしなかったが、連休中に活動している様子はなかった。
私が気付かなかっただけかもしれないが・・・。

5月3日の朝、実家で朝日新聞を捲っていると、スポーツ面に掲載された創価学会の広告が目に入った。
記念日に合わせて、大々的な広告を出稿した様だ。
インド創価学会の子どもたちの写真の上に、
『笑顔の向こうに、新しい明日が見えます』 とある。

india_soka.jpg

インドの子どもたちは、この広告に写っている様な恵まれた環境の子どもたちばかりではない。
かつて、バックパックひとつで1ヶ月程インドを旅行した事があるが、インドの現実はその様なものではなかった。
分かった事を言うつもりはないが、生と死の混沌の中で、子どもも大人も、必死に命を繋いでいた。

渋滞の中で、私の乗った車の側からいつまでたっても離れない女児がいた。窓から小さなお菓子をひとつだけあげると、弟の手をひいて、あっさりとどこかに去っていった。

乞われてお金を渡す事は容易い。
だが、目の当たりにした現実は、豊かな国に育った私には重かった。
どこに行っても、客引きや物乞いが群がってくる。
あまりのしつこさに、嫌気がさして、そのうち近寄って来る人に険しい顔を向ける様になっていた。

そんな時、出会ったある日本人に、こんな事を言われた。
「挨拶してくれてるんだから、挨拶くらい返した方がいいですよ」
そのたった一言が、私にはズシンときた。
自分の行為が、一気に恥ずかしくなった。
私は、何の為にこの国を旅しているのか、その意味を見失っていた。

無意識のうちに、自分より貧しいと思える人たちを見下していたのだと思う。
そんな驕った目で、何を見て、何を理解することが出来ただろうか。
今でも、名前すら知らないその人の一言が忘れられない。

話を新聞広告に戻そう。
世界に認められ、192ヶ国で活躍するはずの創価学会が、日本一国のメディアを籠絡する為に、莫大な資金を注ぎ込む。
一方で、貧しさに喘ぐ子どもたちに分け与えるという選択肢もあるのに。
会員の貴重な寄付金が、世界平和の為ではなく、組織を守る為に浪費されているのが現実だ。

インドでは、ヒンドゥー教徒が8割を占める。
創価が賞賛するガンジーも、ヒンドゥー教徒であったはずだ。
仏教発祥の地とは言え、インドにおける仏教徒の数は僅か1%程度。キリスト教徒よりも少ない。聖なる川ガンガーを埋め尽くし沐浴する人々の数は、この先何十年経とうとも、創価の及ぶところではない。
これもまた、インドの現実だろうと思う。

今日、久々に『SEIKYOnet』を見ると、「5.3」だの「5.5」だの、創価は相変わらず「大闘争」三昧の日々だ。
「仏法は勝負だ」「師の為の勝利こそ正義だ」
そんな言葉は、今日の命を繋ぐのに必死な子どもたちの前では、ただの荒唐無稽なセリフでしかない。
posted by ミル1000 at 23:39| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記